
(出典:
https://dl.ndl.go.jp/pid/1920337/1/86)
1877年(明治10年)1月4日、
地租改正反対一揆の頻発により、
政府は、地租を地価の3%から2.5%に引き下げました。
(財源の安定確保のために地租改正)
明治維新を成し遂げた政府は、財源の安定確保が急務でした。
・・というのは明治政府の主要な財源は、江戸幕府時代と同様に、米で納める「年貢」(ねんぐ)でした。
年貢制度は、豊作凶作によって納められる量が変わという不安定さがあり、米価の変動によって毎年の税収入が左右されるため国の予算が立てにくいものでした。
そこで政府は1873年(明治6年)7月、地租改正法を公布させます。
全国に土地の値段(地価)を設定し、その3%を地租として現金で納税させる仕組みをつくりました。これが地租改正です。

(出典:
https://dl.ndl.go.jp/pid/1920332/1/56)
(不満・反発各地で相次ぐ)
地租改正は市民には不評でした。

(出典:
https://dl.ndl.go.jp/pid/1920332/1/297)
さらに、地租改正に抵抗する一揆も各地で起きました。
1875年(明治8年)から1877年(明治10年)にかけて、地租改正に対する大規模な反対一揆が、相次ぎました。
特に1876年(明治9年)には、米価が下落し石代納(こくだいのう)が困難となったことをきっかけに、一揆がピークを迎えます。
この年の11月以降には,茨城・三重・愛知・和歌山・大阪・熊本などで相次いで一揆が発生しました。
下は 1876年(明治9年) 12月19日に三重県で起こり、愛知・岐阜両県にまで及んだ伊勢暴動の様子です。

(地租引き下げに)
地租改正反対一揆の頻発により、明治政府は1877年(明治10年)1月4日に、地租を3%から2.5%に引き下げる決定をしました。
世の人はこれを称して「竹槍デ ドント突キ出ス 二分五厘」と言ったものでした。
下は三重県の改正地券です。地租の税率は、当初は3%とされていましたが、1877年(明治10年)に2.5%に引き下げられたために、その訂正分を朱書きで加筆しています。

(出典:国税庁ホームページ
https://www.nta.go.jp/about/organization/ntc/sozei/shiryou/library/05.htm)
・・・ということで1月4日は
地租改正反対一揆の頻発により、
地租が地価の3%から2.5%に引き下げられた日です