1944年(昭和19年)12月2日土曜日、
戦前の大投手・沢村栄治が亡くなりました 。
プロ野球でシーズンで最も活躍した先発投手に贈られる賞「沢村賞」の名前になっているのが、沢村栄治です。

(実力派投手)
沢村栄治は、学生時代から優秀な選手で京都商業学校時代は、甲子園に3度出場し、1試合23奪三振を記録しています。
(全米選抜を相手に)
1934年(昭和9年)日米野球が開催されます。全米選抜チームは11月2日から12月1日にかけて、訪日し、全日本チームとの間で11月4日の神宮球場での第1戦を皮切りに全国12都市(東京、函館、仙台、富山、横浜、静岡、名古屋、大阪、小倉、京都、大宮、宇都宮)で16試合戦いました。
このときの全米選抜チームのメンバーはベーブ・ルース、速球王のレフティ・ゴメス、三冠王を獲得したルー・ゲーリッグ、前シーズンの三冠王だったジミー・フォックス、シーズン最多安打・得点王のチャーリー・ゲーリンジャーなどメジャーリーグのトップクラスがそろっていました。
そのため日米の対戦成績は、16戦して日本チームの全敗、まるで相手にならない状態でした。
しかし、11月20日、静岡県静岡市にある静岡草薙球場で行われた日米野球第9戦では、当時17才の沢村栄治が大活躍しました。
この日、沢村は、剛速球と変化球が冴えわたりベーブ・ルース、ルーゲーリックと言った当時の大リーグの強打者など全米軍クリーンナップに対し4連続奪三振を成し遂げます。こうして8回で9個の三振を奪う大活躍をします。
なお、この試合は秋口に行われ、気温は高くありませんでした。そこで、ヒットで出塁した沢村に対し、ベーブルースが、「投手の肩を冷やさないように」とセーターを着せるというエピソードがありました。
そして試合は、試合終盤にゲーリッグが本塁打うち全米が1-0で勝利します。
沢村が投げる変化球のドロップを球筋を読まれ、ソロホームランを打たれたのです。
敗れはしたものの大リーグの強打者達を次々とアウトをとる沢村の姿は強烈でした。
なお、沢村は、この草薙球場の他にも3試合を投げていますが、いずれも滅多打ちにあっています。
沢村の日米野球の通算成績は0勝4敗・防御率7.85(28回2/3で34失点25自責点)です。
(巨人に入団し活躍)
この年の日米野球をきっかけとして、全日本代表チームの選手を中心にした選手19名で12月26日に日本初の職業野球チームである「大日本東京野球倶楽部(後の読売ジャイアンツ)」が結成されました。沢村も入団します。
2年後の1936年(昭和11年)2月5日に日本職業野球連盟が誕生すると、沢村は東京巨人軍(現巨人)のエースとして活躍します。

沢村は、その年9月25日にプロ野球初のノーヒットノーランを達成し、また、リーグ最多勝利(13勝)をあげ、チームの優勝に貢献しました。
プロ2年目となる1937年(昭和12年)の春シーズン(当時は春、秋の2シーズン制)では、リーグ最多の24勝をあげ、プロ野球史上初となる最高殊勲選手(MVP)に選出されました。

(3度の出征)
こうして始まったばかりの日本プロ野球で大活躍を続ける沢村ですが1938年(昭和13年)に招集を受け中国へ出征。
軍隊では、名投手=投げる専門家と言うことで、手榴弾をなげることに注目されていました。しかし、150グラム程度の野球ボールに対し、日本軍が主に使用していた手榴弾(九一式、九七式)は「約500グラム」と非常に重く、これを訓練や実際の戦闘で投げ続けたため、沢村は肩を壊しました。
2年後に巨人へ復帰しますが、そのときは肩を壊し全盛期の剛速球は失われていました。
沢村は、2度目の出征から戻った1943年(昭和18年)のシーズンを最後に現役を引退します。通算5年在籍し、105試合に登板。63勝22敗、防御率1.74でした。
1944年(昭和19年)に3度目の召集を受けます。その年の12月2日未明、アメリカの潜水艦シーデビルが、屋久島沖西方150キロの東シナ海で、フィリピンに向かう日本軍の「ミ29船団」を発見します。
午前4時半には、輸送船「はわい丸」(9467トン)と「安芸川丸」(6895トン)に対し魚雷を発射します。
こうして2隻が撃沈されました。沢村は、このどちらかに乗船していたと見られ、戦死しました。享年27。彼の背番号「14」は球界史上初の永久欠番となりました。
(東京ドームの碑)
東京都文京区後楽園にある、読売巨人軍のホームグラウンドとして有名な東京ドーム。
この野球場の敷地内、21番ゲートの前にある、富坂警察署東京ドーム警備派出所の前の階段を下りると2つの石碑があります。ここに沢村栄治の名前があります。

この2つの石碑は、『鎮魂の碑』(ちんこんのひ)と呼ばれるもので、太平洋戦争などで命を落としたプロ野球選手の功績を記念して建てたものです。
ここにある「鎮魂の碑」は、1981年(昭和56年)4月に旧後楽園球場の脇に建立されました。そして1988年(昭和63年)3月には東京ドームの完成にともない現在の場所に移設されました。
(2つの石碑)
碑は2つあります。
右側の碑は、沢村栄治、吉原正喜、阪神の景浦将と言った戦死した選手73名の氏名が
刻まれています。

ここに名投手・沢村栄治の名前も刻まれています。

向かって左側の石碑には文章が刻まれています。

上の部分の文章は、野球人として唯一特攻隊員として戦死した名選手・石丸進一さんへの、実兄で同じく野球選手だった藤吉さんによる追悼文です。
この石丸選手は、戦前では最後となるノーヒットノーランを達成しています。
1944年(昭和19年)に学徒出陣で召集され翌年に沖縄で特別攻撃隊として戦死しています。
(追憶)

「追憶(ついおく)
弟進一は名古屋軍の投手。昭和十八年20勝し、東西対抗にも選ばれた。 召集(しょうしゅう)は十二月一日佐世保海兵団。十九年航空少尉。神風特別攻撃隊、鹿屋神雷隊に配属された。二十年五月十一日正午出撃命令を受けた進一は、白球とグラブを手に戦友と投球。「よし、ストライク10本」そこで、ボールとグラブと”敢闘”(かんとう)と書いた鉢巻(はちまき)を友の手に託して機上の人となった。愛機はそのまま、南に敵艦を求めて飛び去った。「野球がやれたことは幸福であった。忠と孝を貫いた一生であった。二十四歳で死んでも悔いはない。」ボールと共に届けられた遺書にはそうあった。真っ白いボールでキャッチボールをしている時、進一の胸の中には、生もなく死もなかった。
遺族代表 石丸藤吉 」
(セリーグ会長の言葉)

この碑が建立された当時のセリーグ会長だった鈴木龍二氏による建立趣旨文も
刻まれています
「 第二次世界大戦に出陣し、プロ野球の未来に永遠の夢を託しつつ、戦塵に散華した選手諸君の霊を慰めるためわれら有志あいはかりてこれを建つ 有志代表 鈴木龍二」

<<東京ドーム 鎮魂の碑の行き方>>
水道橋駅から徒歩10分以内
住所 東京都文京区後楽園1丁目3
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東京ドームに行く機会がありましたら ぜひ立ち寄り、戦場に散った野球選手を追悼して下さい
・・・ということで12月2日は、
沢村栄治が死亡した日です。
