
(出典:
https://dl.ndl.go.jp/pid/1920354/1/222)
1883年(明治15年)11月28日、
近代化を進める明治政府は
海外の要人をもてなす施設として
東京・麹町に鹿鳴館を開館しました。
(建設の意図)
明治政府は、日本が文明国であることを西洋諸国にアピールし、日本が抱えていた不平等条約の改正、特に治外法権の撤廃を目論んでいました。
そのためには諸外国との外交的な儀礼として舞踏会の会場が必要となります。
そこで当時の外務卿・井上馨による欧化政策の一環として、鹿鳴館が国賓や外国の外交官を接待する外国との社交場として建設されました。
なお、開館した11月28日は、井上馨の誕生日でした。開館式当日は、およそ1200名が招かれ華やかな落成の会が開かれました。
(鹿鳴館の花)
鹿鳴館では連日のように夜会や舞踏会が開かれ、諸外国の外交官や明治政府の高官たちが参加していました。
しかしながら、海外の舞踏会の情勢に疎い日本政府の高官やその妻たちによる、見よう見まねのダンスはぎこちないものでした。
しかし、その中で、生き生きとダンスをして「鹿鳴館の花」とよばれた女性がいました。
大山捨松です。

捨松は、数え13才から10年間の海外留学経験がありました。

(出典:
https://dl.ndl.go.jp/pid/8797961/1/17)
そのため、捨て松は、海外の風習を理解し、マナーも身につけていました。さらに捨松はアメリカの大学を優秀名成績で卒業した才女で英・仏・独語にも堪能でした。
そのため得意の語学を生かし諸外国の外交官たちと談笑し、外国で身につけた見事な社交ダンスのステップを踏み舞踏会で脚光を浴びました。
(大山巌との結婚披露宴も鹿鳴館で開催)
この捨松は、1883年(明治15年)11月8日、のちに日露戦争で活躍する大山巌と婚儀を行います。ちなみにこのとき捨松24歳、大山は42歳でした。
その20日後の11月28日に鹿鳴館は完成し、そして2週間後の12月12日には、鹿鳴館で、大山家結婚披露宴が行われています。
(日本初のバザーも開催)
また捨松は、鹿鳴館で1884年(明治17年)6月12日から3日間にわたって日本初のチャリティーバザーとなる「鹿鳴館慈善会」を開いています。
下は、バザーの様子を伝える当時の新聞記事です。

(出典:
https://dl.ndl.go.jp/pid/1920354/1/268 )
さらに、当時の天長節=11月3日の明治天皇の誕生日にも鹿鳴館で夜会が盛大に開催されています。

(出典:
https://dl.ndl.go.jp/pid/1920354/300)
(終焉)
しかし、次第に鹿鳴館の夜会がもたらす風俗の乱れが問題化します。
さらに、当初の目的であった条約改正が失敗し、鹿鳴館設立の中心人物であった井上馨が1887年(明治20年)9月に外務大臣を辞任したことなどから、舞踏会は細々となり鹿鳴館時代は幕を下ろすことになりました。
そして1890年(明治23年)に閉鎖され、宮内庁に払い下げられました。その後、建物は華族会館として使用された後、1940年(昭和15年)に取り壊されました。
・・ということで11月28日は鹿鳴館が開館した日です。