
終戦直後、多くの日本人兵士や民間人がソ連軍によって連行されました。
「シベリア抑留」です。
いったいなぜ起きたのか。
どれほどの人が抑留され、そして何人が帰らぬ人となったのか――。
抑留から80年を迎えた年に、福岡市にある福岡縣護國神社で執り行われたシベリア抑留関係者慰霊祭に参列しました。
式典では、過酷な労働と飢え、寒さの中で命を落とした方々への祈りが静かに捧げられていました。
本記事では、シベリア抑留の歴史的背景や死者数の実情を整理するとともに、抑留80年の節目に行われた慰霊祭の様子を現地記録としてお伝えします。
シベリヤ抑留から80年となる2025年(令和7年)
シベリア抑留関係者慰霊祭に参列し
玉串を奉納してきました。
※今回、全国強制抑留者協会様の御協力を頂きました。有難うございました。
(福岡縣護国神社で開催)
2025年(令和7年)10月26日(日)午前10時半、福岡県福岡市中央区にある福岡縣護国
神社の「参集殿」にて、シベリア抑留関係者慰霊祭が行われました。
(シベリア抑留が起きた背景)
それでは、シベリア抑留が起きた時期を見ていきます。
1945年(昭和20年)8月9日、日ソ中立条約が一方的に破られ、ソ連が日本に参戦します。国際法違反行為です。

侵攻してきたソ連は、元日本兵や民間人をシベリアやモンゴルに移送し、過酷な強制労働を行います。この中には、電話交換手や看護婦など女性も含まれていました。
(ソ連が行った捕虜の強制労働はポツダム宣言違反及び、ハーグ陸戦条約違反)
日本が受諾したポツダム宣言では「武装解除した日本兵を家庭に帰す」と記載されていました。
またハーグ陸戦条約の第二章「俘虜」には「人道を持って取り扱う事」(第四条)「その労働は過度でなく」(第六条)「平和克復の後はなるべく速やかに、俘虜をその本国に帰還させなければならない。」(第二十条)と記されています。
しかし、いずれもソ連はそれを無視した扱い=国際法違反行為です。
(過酷な抑留生活)
抑留された方々は、「極寒での寒さ」「重労働」「食料不足による栄養失調」「いつ故国に帰ることができるか見当がつかない精神的不安」・・この4つに苦しめられました。
彼らが住まされたのは、マイナス30度になる厳しい環境の中、最初はラーゲリと呼ばれるみ収容所に入れられました。
ラーゲリは、最初はテントを張っただけの粗末な小屋で、寒くて戦友と裸で抱き合い、お互いの体温で温めてしのいだそうです。吐く息でテントに氷の層ができていたそうです。
やがて、自分たちで丸太小屋を作らされ、収容所は少しはましなものになりました。
しかし、土を見るのは年に3か月程度であとは雪の世界。
朝起きると冷たくなっている人が続出し、収容所から少し離れた場所には遺体を埋める穴が掘られていました。この穴も捕虜が掘って作ったものです。


食事は、粗末で黒パン300グラム=1キレと具がない塩味の薄いスープだけ。毎日が飢餓との戦いで、多くの人が餓死しました。
捕虜は強制労働を強いられました。そのほとんどが森林伐採とバム鉄道(第二シベリア鉄道)の建設でした。手作業で森を切り開き、土地を整備しレールを敷いていきます。
栄養不足の状態で極寒の中での作業、しかも厳しいノルマがあり、達成できないと食事が減らされる状況でした。

また、ソ連は、東京ダモイ(東京に帰れる)と言いつつ、捕虜を列車に乗せ、違う場所に連れて行き、強制労働を行いました。こうしたことが続くので捕虜の方は、いつ日本に帰ることができるかと不安の日々でした。

こうした環境に嫌気がさし、逃げだそうとして射殺された捕虜の方もいます。
厚生労働省の調査によりますと、シベリアなどに抑留され犠牲になった人は推計で、
およそ5万5000人とされていて、犠牲者の遺骨の多くは今も返還されていません。
(戦後80年・シベリア抑留80年・慰霊祭に参列)
2025年(令和7年)もお誘いを受け、10月26日(日)10時半から、福岡市中央区にある福岡縣護国神社「参集殿」で行われた、シベリア抑留関係者慰霊祭に参列しました。
会場には、遺族や関係者など50人が参列しました。
2025年(令和7年)は終戦から80年・シベリア抑留から80年です。
慰霊祭は10時半に始まり11時半過ぎに終了しました。

式典中、「日ソ中立条約を一方的に破棄し侵攻」「兵士はすぐに帰国できるというポツダム宣言に違反した強制労働」という言葉を聞きました。
日本がポツダム宣言を受諾し、兵士たちは「戦争が終わったので、これで故郷に帰れる!!」ハズだったのですが、ソ連が国際法を違反して日本人捕虜を強制連行したことで、この惨劇が起き多くの方が命を落としたのです。
これは忘れてはいけません。
(献花)
参列者全員で献花。もちろん、おっさんも献花しました。
(講演)
今回は2人の方がお話を披露してくれました。
最初は元看護婦の女性。
父親をシベリアで亡くし、自らも旧満州からの引き揚げを経験した88歳の女性で、
「敗戦でソ連が進駐してくるので、性的暴行を受ける事を危惧した女性たちの集団自決の話」を聞かせてくれました。
もう1人は、1929年(昭和4年)生まれの佐藤隆さん。この時点で96歳です。
旧満州で終戦を迎え、17歳の時にシベリアに抑留された佐藤隆さんは、極寒の地でわずかな食料のみで、木の伐採や荷物の運搬、鉄道建設など厳しい環境下で長時間の過酷な労働を強いられた体験を語りました。
・収容所では、トイレは空き地に穴を掘っただけの粗末なもので、冬は糞尿がすぐに凍って積もり山のようになるので、それを鉄棒で砕いて畑に埋め肥料とした。
・食料配給は、ソ連人が何度もピンハネして日本人捕虜の元に届くときにはわずかになっていた。
・ソ連兵には、まともな教育を受けた人が少なく、ガサツで粗暴だった。
・ソ連兵のダモイ(帰国・帰還)という言葉に帰国の希望をもったが、何度も騙され各地で労働をさせられた。
(舞鶴引き揚げ記念館)
捕虜の方々が異国での強制労働で、命を落とすことなく生き延び、ようやく苦しい抑留生活から解放され、引き揚げてきた日本の港の1つが日本海側にある京都の舞鶴港です。
ここは、主に旧満洲や朝鮮半島やシベリアからの引揚者・復員兵を迎え入れる港となり、1945年(昭和20年)10月7日に最初の引揚船“雲仙丸”が入港します。
以後1955年(昭和33年)9月7日の最終引揚船“白山丸”の入港まで約66万人もの引揚者・復員兵を迎え入れてきました。
その舞鶴には、舞鶴引き揚げ記念館があり、ここには抑留された方々の生活が再現されています。
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ロシアは、1993年(平成5年)に、
当時のエリツィン大統領が
日本を公式訪問した時、
抑留を「非人間的な行為だった」と認め、
日本側に謝罪しています。
厚生労働省が確認したシベリア抑留死亡者数は
約55,000人。
これは東京ドームのキャパと同じです。
シベリヤ抑留体験者が起きた事を忘れず
私達は「何が起きたかを」伝え残していくべきだと
改めて感じました。
