
1944年(昭和19年)10月10日、
米軍が那覇などに大規模に空襲し1400人以上が死傷した
「10・10空襲」が起きました。
この空襲は、
日本で初めて民間人が大規模に標的となったとされ、
また翌年の沖縄戦の始まりともいわれています。
(9時間に及ぶ空襲)
1944年(昭和19年)10月10日に、米軍第三機動部隊空母から発進した米軍艦載機が
県庁の那覇をはじめとした沖縄県内各地や奄美諸島に激しい攻撃を行いました。

午前6時40分の第一次攻撃から午後3時45分の第五次攻撃まで9時間にわたる波状的空襲が行われ、のべ1,396機の米軍艦載機が縦横無尽に爆弾や焼夷弾を投下しました。
那覇市では当時の市のおよそ9割が焼失し、コンクリートの建物を除くほとんどの家屋が焼けました。

(国際法違反で日本政府がアメリカに抗議)
この「10・10空襲」は、日本で初めて民間人が攻撃され、また病院、学校と言った非軍事施設が本格的に標的となった無差別攻撃とされ、668人の死者の多くが民間人です。
市民や民間人など非戦闘員への攻撃、非軍事目標への攻撃はハーグ陸戦条約で禁じられている国際法違反行為です。
12月、日本政府は、非軍事目標である市街地を攻撃した那覇市への無差別爆撃は国際法規違反であると中立国のスペイン政府を通じた外交ルートでアメリカ政府に正式に抗議しています。
下はその抗議文です。


【引用:「3.那覇無差別爆撃関係」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B02032457100、大東亜戦争関係一件/戦況/米機本邦空襲関係(A.7.0.0.9-7-1)(外務省外交史料館:
しかし、アメリカ側は、この抗議を黙殺しています。
(沖縄本島上陸用の地図作成の役目も)
この空襲でアメリカ軍は、爆撃とともに空中から沖縄各地の状況を撮影していいます。これが翌年4月1日から始まった沖縄本島上陸作戦の際の地図などの貴重な資料となりました。
(無差別爆撃の実験用)
10・10空襲は、その後に、米軍が日本各地で行った無差別空襲の実験の場だったという見方もあります。
10・10空襲は、9時間余りで合計5回にわたりましたが、4回目と5回目は焼夷弾が使われています。
米軍が空襲で初めて日本国内に焼夷弾を投下したのが10・10空襲だと言われています。
米軍は10・10空襲で、焼夷弾を投下し、その破壊力を認識し、やがて日本各地の民間地の攻撃に有効な破壊力を持つと判断したのではないか、つまりこの空襲は焼夷弾の実験場であったという見方もあります。
(慰霊祭に参列)
10月10日には県内各地で語り継ぎや追悼式典などが開かれます。おっさんは2023年(令和5年)に沖縄の戦争遺跡を巡りましたが、そのとき、この慰霊祭に参加しました。
10・10空襲で本格的に使用された焼夷弾は
翌1945年(昭和20年)3月10日に東京大空襲で
大量に投下されが10万人以上が命を落とします。
そして終戦まで日本各地に投下され
日本は焼け野原になります。