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8月30日14時5分、連合国軍総司令部・最高司令官ダグラスマッカーサー厚木に到着

1945年(昭和20年)8月30日、
神奈川県の厚木飛行場に一人の男が降り立ちます。
連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー65歳です。
天皇が日本の敗戦を告げた玉音放送から
15日後のことでした。

終戦の前日、1945年(昭和20年)8月14日、トルーマン大統領は、日本のポツダム宣言受諾を受けて、マッカーサー元帥を連合国軍最高司令官に任命しました。

(マッカーサー機に体当たりを敢行する!)
1945年(昭和20年)8月15日に行われた玉音放送により日本は終戦を迎えますが、それに反対し、海軍厚木飛行場で第三〇二海軍航空隊(三〇二空)司令の小園安名大佐が終戦を受け入れず徹底抗戦の構えを見せます。

ここ、厚木飛行場はマッカーサー機が到着する予定の飛行場ですが、海軍航空隊三〇二海軍航空隊司令の小園安名大佐が徹底抗戦を宣言して陣取っていました。またここ厚木から出撃してマッカーサーが搭乗機に体当たりをするとも広言していました。
しかし、8月19日に小園がマラリアで高熱が出て病床に伏し、8月22日には高松宮殿下が厚木に出向いて、残る航空隊の士官、将兵らを説得して、ようやく厚木飛行場は解放されました。そして26日に抗戦派全員が拘束され、事件は終結し、予定通りマッカーサー機を受け入れることが可能となりました。
マッカーサー機到着)
1945年(昭和20年)8月30日、14時5分、マッカーサー元帥を乗せた愛機「バターン号」は予定よりも1時間早く厚木飛行場に到着しました。

マッカーサーは愛機「バターン号」の出口から姿を現すと、静かに180度周囲を見回します。このときのマッカーサーは、サングラスをかけ、コーンパイプをくわ、上着はつけず、カーキ色の軍服姿でした。

そして、ゆっくりとタラップを下って厚木の地に降り立ちました。


この横浜進駐時の総司令部は、元帥が指揮を執る米太平洋陸軍総司令部です。
その後、元帥と総司令部は9月17日に東京に移駐します。

東京移駐後の昭和20年10月2日付で、連合国軍最高司令官総司令部)、略して連合国軍総司令部(GHQ)が正式発足します。

マッカーサー元帥は、マスコミでは「マ元帥」と表記されました。 

そして日本に約2000日君臨し、「民主主義日本」を建国するという名目で、新憲法財閥解体、家父長制度の解体、女性選挙権、労働者の権利拡充などを実現しました

マッカーサー元帥来日前後の動き◆

1945年(昭和20年)
8月14日 日本ポツダム宣言受諾を連合国に通知。
                      トルーマン米大統領マッカーサー元帥を連合国軍最高司令官に任命           

  30日 マッカーサー元帥と総司令部厚木到着、横浜進駐 

9月 2日 横浜沖のミズーリ艦上で降伏文書調印

   17日 マッカーサー元帥、東京・第一生命ビルに移駐

1948年(昭昭23年)

12月23日、東京裁判での死刑執行

(解任)
しかし、マッカーサー元帥は1950年(昭和25年)に勃発した朝鮮戦争をめぐる対応で、トルーマン米大統領と対立しGHQ総司令官を解任されます。
そして翌年の1951年(昭和26年)4月16日、羽田空港から米国へと帰国します。

・・・ということで8月30日は、

占領下の日本の実質上のナンバー1となる
連合国軍総司令部・最高司令官の
ダグラス・マッカーサーが厚木に到着した日です。




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