2025年(令和7年)のNHK大河ドラマは「べらぼう」です。
この物語は、1750年(寛延3年)1月7日に、江戸時代の遊郭・吉原で生まれ、1797年(寛政9年)に亡くなった人物でいわゆるプロデューサー蔦屋重三郎の物語です。
彼が手掛けたエンタメビジネスは、現在の日本文化やエンタメに影響を与え続けています。
2025年(令和7年)7月13日(日曜日)、NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の第27話は「願わくば花の下にて春死なむ」です。
まあ、このタイトルを見た人の多くはピンと来たと思いますが、
これ、有名な西行の「願わくば桜の下にて春死なむ その三月の望月の頃」からとってますね。
それではストーリーを見て行きます。
(発覚)
田沼意知は蝦夷地を幕府の直轄地にしてロシアとの交易や鉱山の開発を行うことで歳入を増やし幕府の財政を健全化しようと考えていました。
そのためには蝦夷地を上知にする理由が必要で、吉原を巻き込み動いていた田沼ですが、松前廣年が、花野雲助=田沼意知ということに気づかれてしまいました。
1984年(天明4年)年明け
松前家当主・松前道廣とその異母弟・松前廣年が、一橋治済を訪ね、幕府が蝦夷地を召し上げることをやめさせてほしいと頼みます。ここで一橋治済にも、田沼親子が蝦夷地を上知しようとしていることが知らされます。
(米高騰で身請け話が座礁)
前年の1783年5月9日(天明3年4月9日)に起きた、浅間山の噴火は7月7日(8月4日)夜〜翌朝頃に最盛期を迎え]約90日間続きました。そのため天候不順と浅間山の火山噴煙が原因で米が不作となり、収穫量が激減し米の値が前の年の倍につりあがりました。
世間では米高騰が田沼家へが批判となり、それが日に日に強まっています。
そのため、誰袖の身請けの話が暗礁に乗り上げてしまいます。
(桜の木の下で)
吉原の大文字屋では、田沼意知は誰袖と会っていました。
誰袖が「いよいよ身請けにござりんすか?」と問うと田沼意知は「そういきたいところだ」と答えます。
そして意知は誰袖に膝枕をすると「春にはここに花があるとよいのう。そなたと桜の木の下で」と言います。
(米の価格下がらず)
しかしながら、米の値は下がりません。
田沼たちが米価対策として株仲間を廃止し、誰もが米を自由に売り買いできるようになりました。
すると、裕福な商人が米を買い占め、それを高値で転売して大儲けするようになったのです。人間の欲がコメの値段をなかなか下げさせようとしません。
田沼意次は、紀州藩の徳川治貞から、米高騰になんら手を打つことができない事態に対して厳しい叱責を受けます。
さらに、世間ではコメの高騰が続くのは田沼意次の悪だくみだと噂される始末。
息子の意知も、このご時世に吉原通いをしている!!と批判されます。
こうして「田沼親子=悪の根源」というイメージが作られていきます。
米価格高騰で満足に食事をすることもできない人が増え、江戸には飢えた流民が地方から集まってきました。こうしてお救い小屋は流民であふれかえっています。
すべてが悪い方向へと動いています。
(佐野政信)
ある日、田沼屋敷に佐野政言の父・佐野政豊がやってきました。
この老人は「系図を返せ」というのですが、系図は意次が池に投げてしまったために、もう返せません。
そのうち息子の政言が姿を現し「もうろくしておりますゆえ、何卒お慈悲を」と詫びました。
田沼意知は、意次に「佐野政言を引き立ててほしい」と頼みますが、意次は、若年寄に抜擢された意知が自分で佐野政言を引き立てるようにと言います。
そして意知は、政言に10代将軍徳川家治の狩りのお供という好待遇を与えます。
(鷹狩り)
10代将軍徳川家治の狩りが行われました。
10代将軍徳川家治の狩りのお供となった政信は、この鷹狩で雁を射止めた手ごたえを感じます。しかし、肝心の雁が見つかりません。
意知も気になって一緒になって探しますが、とうとう見つかりませんでした。
政信は、この鷹狩で家治の目に留まるような活躍をしようと思っていましたが、それができず落ち込みます。その一方で、佐野を信じ一緒に探した意知は将軍・家治から褒められました。
(ある男登場・・)
鷹狩の数日後・・。
ある男が政信を訪ね佐野家にやってきました。
彼は政信の矢に射抜かれた雁を見せ、この雁を見つけた意知が、これを隠すのを見たのだと話します。
政言は、意知がそんなことをするはずがない、と言い、男を返しました。
実は、この男は、以前“丈右衛門”と名乗って平賀源内に近づき、源内の暗殺にかかわった要注意人物です。
なにやら陰謀の予感・・・なぜ、政信に意知が意地悪をしていたということをわざわざ吹き込むのか・・・何か企んでいるようです。
(売れない・・)
1783年(天明3年)9月に、日本橋に蔦屋耕書堂をかまえた重三郎は、米高騰と米不足に対して自分たちにできることはないか」と考え、正月用に、おめでたい狂歌集を作りました。
こうして暗い世の中を笑いと希望で彩ろうという目的で、正月用に作成した、『歳旦狂歌集』ですが、不景気ということもありなかなか売れません。
(一挙五得)
米の高騰は金持ちと貧乏人に明暗を分けていました。
大文字屋の二代目によると、米を転売して大金を手に入れ大もうけした連中は吉原で派手に遊びますが、その一方で、日々の食事にさえ困る者達が女郎になるというケースが増えているのだそうです。
また、このままでは誰袖の身請け話が流れるのではないかと危惧していました。
その話を聞いた重三郎の妻・ていは、「一挙両得と申します。ならばここは、一挙五得となさるがよろしいかと」と切り出し、日本橋が一丸となって米の値を下げる知恵を絞ってはどうかと話を勧めます。
米の値段を下げることに成功すれば、「誰袖の身請けが叶う」、「田沼家の評判も持ち直す」「景気は回復」「流民にも施しが回ってくる」「重三郎の願いが叶う」というみんながハッピーになり、すべていい方向に回るというのです。
その、ていの言葉に重三郎は納得します。
一方、歌麿は、そんな2人の会話を聞き、そっと部屋を出ていきます。
(公儀が米を仕入れ民に売る)
ていが提案した「一挙五得」を実現するにはどうすればいいか・・・日本橋のみんなで集まり良い策を考えました。そして考え付いたのが、「公儀が米を仕入れ、それを仕入れ値で民に売る」というシステムです。
ここでいう、「公儀」とは江戸幕府のことです。
つまり、幕府が米を買い取り、仕入れ値のまま民に売るということです。
重三郎は、田沼屋敷を訪れ、この案を提示します。それを聞いた田沼意知は、「武家が商いをするなどありえない」と難を示しますが、重三郎は、「これは商いではなく政だ」と譲りません。
(身請け話)
さらに重三郎は、「なんとか誰袖を身請けしてやってほしい。身請けがならぬ限り、女郎は日々身を売らねばなりません。何卒、花魁に慈悲をいただけないでしょうか」と意知に懇願します。
すると意知は、すでに動いていることを知らせます。
意知は、誰袖に手紙を送っていたのです。
その手紙には、田沼家への風当たりは強まるばかりで直接身請けするのは厳しいが、だからといっていつまでも待たせておくのは忍びないとして、家臣の土山宗次郎に身請けさせる形にしたい、と書いていました。
つまり、いきなり意知に身請けするのは風当たりも強くなることが予想されるので、土山経由で身請けという形をとるというのです。
そしてこの手紙の最後には、「今年の春は花の下で月見をしたい」と追記されていました。
手紙を受け取った誰袖は、もう身請けの話は、なしになったのかと思うておりんしたが・・と喜びます。
意知は、かつて平賀源内を見捨てたことがありその、罪滅ぼしのため源内の案だった蝦夷地の上知を叶えたいのだと話しました。
それを聞いた重三郎は、蝦夷地を召し上げる件で、自分にできることがあれば申し付けてほしいと口にします。
(ささやき)
1784年(天明4年)春
佐野家の庭では、政信の父・政豊が桜の木の下で嘆いていました。
桜の木は5代将軍徳川綱吉から賜った家宝ですが、今年はその桜が花をつけず、政言が枯らしたのだと怒り、政信を打ち付けます。
そこに、ある男が再び姿を現しました。
この男は、政信に雁のことを教えに来た男で、以前は“丈右衛門”と名乗って平賀源内に近づき、源内の暗殺にかかわっています。
その男に対し、政信は思わず自身の身の上話をします。曰く、9人の姉の後にやっと授かった男子で期待を受けて育てられたのだと・・。
そして、その男は、意次が神社に寄進した桜が見事な花を咲かせ「田沼の桜」として大人気になっていることを話し「あれは元は佐野殿の桜ではございませぬか?」と言います。これを聞いて政言は、以前、田沼家に贈った桜が神社に寄進されていたことを知りました。
神社へ「田沼の桜」を見に行き、戻ってきた政言は、枯れた桜に「咲け」と叫びながら刀を振り回す父を見て、涙を流しながらも満面の笑みで「私が…咲かせてご覧にいれましょう」と言います。
「田沼にやった桜は神社に寄進され今や田沼の桜として大人気、一方、我が家の桜は、咲かない・・・」政信は、このみじめな扱いを身に沁みます。
佐野政信は、その男から
“家治との狩りで政言が射落とした鴨を意知が隠した”
“田沼が神社に寄進した桜は、実は佐野が田沼に贈ったものだった”
“佐野家の系図を田沼がなきものにした”・・・など、田沼がいかに佐野家を軽んじてきたかという話を次々と吹き込まれます。
こうして政信の意識の中に、佐野家が今つらい立場になってるのは田沼意知のせいだという気持ちが徐々に植えこまれていきます。
ゆっくりとネガティブ情報をインプットされた政信は、じわじわと田沼意知に対し不信感・反感・敵意を増していきます。
さらに傍らには老いてもうろくした父親・・・正信は自分の不幸な境遇を感じ怒りに震えながら、錆びた刀を研ぎ続けていました。
追い詰められた平賀源内を死への道筋に追いやった男が、今度は追い詰められた佐野政言を殿中刃傷へと誘導していくのです。
(殿中刃傷)
米高騰対策として幕府は、大坂で買い占められた米のうち6万石を買い取り、それを市民に配ることにしました。
大文字屋では誰袖が豪華な衣装を身にまとっていました。重三郎は誰袖に、自分と誰袖との出会いの場面を描いた絵を贈ります。
こうして誰袖は大文字屋と志げに見送られ、大文字屋を後にしました。
重三郎は誰袖に同行し「今日は雲助様に会えるのか?」と言い、誰袖は「今宵は2人、花の下で月をみようと、「西行は花の下もとにて死なんとか 雲助袖の下にて死にたし」…だそうで」と答えます。
重三郎は「かをり、とびきり幸せになれよ」というと誰袖も、「言われずとも♪誰よりも幸せな2人に」と返します。
しかし1784年(天明4年)3月24日、田沼意知が自分たちに対し数々の嫌がらせをしていると思い込んだ佐野政言が、突然江戸城中で意知を斬りつけました。
ここで今回のドラマのでは見請けされることになって幸せ状態の誰袖の笑顔と、暗殺されることになる意知の姿が交互に映し出されていくという演出でした。
さてさて、これからどうなるのか!次回に続きます。
<<おまけ>>
吉原遊郭があった地域を歩きましたが、
そこには当時の名残が残っていました。
<吉原神社>

<吉原弁財天(よしわらべんざいてん)本宮>

<見返り柳>

この3つは、すべて歩いて行ける距離にあります。
吉原は京の島原(京都市下京区)、
大坂の新町(大阪市西区)と並んで
三大遊廓と呼ばれていました。
京都島原遊郭跡地は行ったことがあります。
・・・ということで
2025年(令和7年)の大河ドラマ「べらぼう」
第27話「願わくば花の下にて春死なむ」の紹介でした。
