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7月14日 日本が初出場したストックホルム五輪でマラソン世界記録更新者・金栗四三出場!その結果は?当時の新聞記事も紹介

1912年(明治45年)7月14日
日本が初めて出場したオリンピックで
注目の選手が登場しました。
世界記録を更新した
ラソン選手・金栗四三です。

(日本、五輪初参加)
1912年(明治45年)7月6日(土)、スウェーデンストックホルムでオリンピックの
開会式が開かれました。
この五輪は、参加選手は28か国2406名(女性は47名でテニス、飛込、水泳に出場)で、18競技102種目が行われました。
そして、この大会で、日本がアジアの国としての初めてオリンピックに参加しました。

(初めて五輪に参加した日本人選手は2名)
このストックホルムオリンピックで日本は初めて五輪に2人の選手が参加します。
下は、その2人が選考された時の記事です。

(出典:新聞集成明治編年史 第十四卷 昭和15年出版」デジタル国会図書館

https://dl.ndl.go.jp/pid/1920445/1/288

 

参加選手は2人で、1人は陸上競技短距離の三島野弥彦です。三島野弥彦は、100メートル、200メートル、400メートルの3種目に出場しました。

もう1人はマラソン金栗四三でした。
金栗は、ストックホルムオリンピック前年となる1911年(明治44年)、五輪に向けたマラソンの予選会に出場し、当時の世界記録を27分も縮める大記録(2時間32分45秒)を出し五輪出場となりました。
世界記録を更新したわけですから、期待が高まります。

(五輪に初参加した日本人選手の苦労)
こうして初参加した日本人選手ですが、様々な苦労に直面しました。
当時は五輪は現在のように注目されておらず参加費用も自費でした。金栗は基金を集め渡航資金を調達しました。

しかも日本は、五輪出場選手に対してスケジュール調整や選手の体調管理などのノウハウを持っていませんでした。
またストックホルムへの移動も、シベリア鉄道での20日間近い長旅でした。
下に地図がありますが、ストックホルムは日本からこの距離です。この長くて遠い距離を陸路で行くのです。
飛行機で行くにも時間がかかりそうなのに、当時は飛行機がまだないので、延々と鉄道でいくのです。これはしんどいですよ。

下は出発前の記事です。

(出典:新聞集成明治編年史 第十四卷 昭和15年出版」デジタル国会図書館

https://dl.ndl.go.jp/pid/1920445/1/300

こうしてようやくスウェーデンに着いたわけですが、スウェーデンは、オリンピック開催期間は白夜であったため、白夜に初体験の2人の日本人は睡眠不足になり、身体のリズムがおかしくなります。
また食べ物に関しても、米などを準備してなく、慣れないスウェーデン料理なので苦労します。

(7月6日開会式)
五輪の開会式が行われたのは7月6日土曜日。3万人の観衆の中、日本選手団は10番目に入場しました。
日本人選手団はわずか4人。選手団長はアジア初のIOC国際オリンピック委員会の委員の嘉納治五郎です。

参加選手は2人で、1人は陸上競技短距離の三島野弥彦です。もう1人はマラソン金栗四三でした。

下の写真は7月6日の開会式の日本選手団です。
プラカードを持っているのは金栗、日本の国旗を持っているのは三島です。

二人とも白の半袖ユニフォームにパンツ姿で、三島は黒のソックス、金栗は黒足袋だったそうです。

(NIPPON)
日本の入場行進のプラカードをよく見ると表記が「NIPPON」となっています。「JAPAN」ではありません。
この「NIPPON」の表記を決めたのは、ストックホルム五輪日本選手団団長を務めた
嘉納治五郎です。
なお日本選手団がプラカードで「NIPPON」と表記したのは、この大会だけで、以降のオリンピックは全て「JAPAN」という表記です。

(金栗への期待高まる)
短距離の三島は成績が振るわず、西欧人との体力の差を痛感します。
三島は、7月6日、開会式直後に、100m予選でトップに1秒以上の差をつけられ敗退。

(出典:新聞集成明治編年史 第十四卷 昭和15年出版」デジタル国会図書館

https://dl.ndl.go.jp/pid/1920445/1/314


200m予選も英米独の3選手に敗れ最下位。

https://dl.ndl.go.jp/pid/1920445/1/315


400メートルは準決勝進出の権利を得たもの、右足の激しい痛みのために棄権しました。当時の日本人と西欧人の体力の差は大きく三島は「日本人には短距離は無理そうだ」と話しています。
下の写真は400メートル走予選の三島です。

(7月14日マラソン競技開始)
7月14日、マラソン競技がスタートしました。
金栗は当時のマラソンの世界記録を更新していたのですから、その期待も大きいものでした。

しかし金栗は、舗装された路面での練習に慣れてなく、ヒザを痛め、またマラソンの当日に迎えに来るはずの車が来なかったために、競技場まで走らなければいけなかった、というハンディがありました。

このマラソンが出場者68名中、完走は半分の34名で、亡くなる者も出るという過酷なレースでした。金栗は日射病でマラソン中に行方不明となりました。

(出典:新聞集成明治編年史 第十四卷 昭和15年出版」デジタル国会図書館

https://dl.ndl.go.jp/pid/1920445/1/315

(消えた日本人選手・金栗)
こうして、期待されたものの棄権した金栗ですが、実はストックホルムオリンピックではオリンピック委員会に棄権の意思を伝えていませんでした。
そのため記録上では「競技中に失踪し、行方不明でゴールをしていない」状態、つまり「競技中に消えた日本人選手」でした。

そこでオリンピック委員会が金栗を探し出し、1967年(昭和42年)3月21日、ストックホルムオリンピック開催55周年を記念する式典に招待します。
そして金栗は、ストックホルム競技場をゆっくり走り、ゴールのテープを切ります。

この時、「日本の金栗、ただいまゴールイン。タイム、54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3、これをもって第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了します」といういきなアナウンスが流されました。
金栗のマラソンのタイムは54年8か月6日5時間32分20秒3というオリンピック史上最も遅いマラソン記録であり、たぶんこの記録が破られる事は無いと思われます。

(嫁をめとり子供と孫ができた)
このときの金栗のインタビューがまたしゃれています。インタビュアーがゴールをした感想を聞くと金栗は「長い道のりでした。この間に嫁を娶り、子供6人と孫が10人できました。」とコメントしています。そしてこの記録は「マラソン完走最長タイム: longest time to complete a marathon」としてギネスに認定されています。

金栗四三の地元が作成した
「日本マラソンの父 金栗四三の生家」公式HP↓

金栗四三に関してはこれがお勧めです👇

 

 

 

・・・ということで
7月14日は
日本人が初めて参加したストックホルム五輪で
ラソン競技世界記録更新者の
金栗四三が出場した日です。




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