このまま脱出したら、
小学校や住宅に機体が落ちて大きな被害が出てしまう・・
そう考え最後まで操縦し
山に衝突して亡くなったパイロットがいます。
陸軍小月飛行場の向後次郎軍曹です。
(小月飛行場)
1940年(昭和15年)3月に完成した陸軍の小月飛行場は、製鉄所がある八幡、陸軍造兵廠がある小倉を始め、九州北部方面などの防空を担っていました。

小月飛行場には屠龍という戦闘機が防空のために配置されていました。

屠龍は2人乗りの二式複座戦闘機。
小月飛行場の部隊は、対B-29の本土防空部隊としては日本一の精鋭部隊とも称され、
B29の日本本土初爆撃となった1944年(昭和19年)6月15日から迎撃戦に参加し、終戦に至るまで連日出撃し、数多くのB29を撃墜しています。
(小学校への墜落を避けるため脱出せずに最後まで操縦し山に激突し死亡:向後 次郎軍曹)

1944年(昭和19年)7月8日、B29が北九州の街を空襲します。
小月飛行場からは迎撃のため屠龍が向かい、空中戦となります。
その1機、向後次郎軍曹は、北九州上空でB-29の攻撃を受け右エンジンを被弾します。そのため、小月基地へと戻ろうとします。
これは基地に戻り修理をするためだったと思われます。
向後次郎軍曹は、敵機が追ってくることを想定し、高射砲が備え付けられている山に向かい飛行します。こうすることで、もし敵機が追ってきたら、その高射砲が敵機を攻撃してくれるからです。
しかし次第に機体の高度が下がり墜落しそうになります。
ふと前方を見ると、そこには生野小学校が見えてきました。小学校では、朝礼が終了し全校生徒が運動場に残っていました。
向後次郎軍曹は、落下傘を着用していたので脱出しようと思えば、できました。
しかし、このまま脱出したら機体が小学校に落ち、大勢の子供達が死んでしまう・・
そう考え、大惨事を避けるために、小学校や付近の住宅に飛行機が落ちないように操縦し、最後は下関市宝町の鳥越山に激闘し死亡しました。享年23。
当時の生野小学校校長が、現場を見に行ったところ「遺体は操縦程をしっかり握りしめていたので、その指を一本一本はがして、機体から下ろしてあげた」そうです。

・・ということで、7月8日は、
向後次郎軍曹が、
脱出出来たにもかかわらず、
小学校や街に大きな被害が出ないように飛行機を操縦し
命を落とした日です。
