2025年(令和7年)のNHK大河ドラマは「べらぼう」です。
この物語は、1750年(寛延3年)1月7日に、江戸時代の遊郭・吉原で生まれ、1797年(寛政9年)に亡くなった人物でいわゆるプロデューサー蔦屋重三郎の物語です。
彼が手掛けたエンタメビジネスは、現在の日本文化やエンタメに影響を与え続けています。
2025年(令和7年)6月29日(日曜日)、NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の第25話は「灰の雨降る日本橋」です。
それではストーリーを見て行きます。
(店を買い取ってよ)
日本橋の店=丸屋を買い取ることができずに落ち込む重三郎・・。
この頃、江戸の街では、浅間山が噴火しているため頻繁に地震が起きています。
このとき柏原屋がやって来て「蔦屋さん、うちからあの店買いませへんか?」と重三郎に丸屋の購入を持ちかけました。
柏原屋の話では、鶴屋の勧めで丸屋を買い取ったものの、最近の物価高のせいで、出店するための改装などの費用がかさみそうなので手放したいというのです。
重三郎には断る理由がありませんので快諾しました。
しかし、もう1つ問題がありました。
吉原者には江戸市中の屋敷を買うことが禁じられています。この難問を解決しないと、吉原者の重三郎は日本橋に進出ができません。
(交換条件)
後日、重三郎は須原屋に連れられ田沼屋敷を訪ねます。
この時、須原屋は、以前、重三郎に見せた蝦夷地の地図を田沼意知に見せます。この地図には松前藩が抜荷をしていた証拠が書かれていたのです。
須原屋が、自分が持つ「蝦夷地の抜荷の絵図」を差し出す代わりに、その交換条件として、重三郎は意知から日本橋出店への協力を取り付けました。
こうして形の上では日本橋の丸屋は重三郎の物になりました。
(恵みの灰)
1783年5月9日(天明3年4月9日)
浅間山が本格的に噴火しました。この噴火は、7月7日(8月4日)夜〜翌朝頃に最盛期を迎え]約90日間続くことになります。
この噴火で江戸の町は激しい揺れとともに灰が降り注ぎます。
これを見た重三郎は、これは恵の灰だと言います。
そして大荷物を担いで日本橋にやってきました。
重三郎は、ていに「ここは俺の店なんで」と言い、店の売り渡し証文を見せ、さらに「一緒に店を守りませんか」と言いますが無視されます。
重三郎は、丸屋の屋根に登り、瓦の隙間に灰が入りこまないよう女郎たちの着古した着物で屋根を覆い尽くします。さらに樋が詰まらないようと古い帯で巻きました。
その様子を見ていた鶴屋と村田屋は、重三郎と同じように。自分たちの店の屋根に布をかけ始め、やがて、日本橋通油町の店々がそれに倣います。
次に、重三郎は「桶に灰を溜めときゃ掃除すんの楽ですよ!」と灰を溜める桶を丸屋の店先で売り始めました。チャンスをものにする素晴らしい商才です。
夕方、丸屋の屋根の上での作業が終わりました。そのとき、閉まっていた丸屋の戸板が開き、中の土間に水を張った洗い桶とおむすびが用意されていました。
重三郎は大喜びでおむすびを食べ、楽しそうに、みの吉と話しています。
その様子をていが奥の部屋から聞いていました。
(わっちの色でありんす)
一方吉原。ここでも浅間山噴火の灰が降り積もっていました。
大文字屋では、てきぱきと灰の処理をする田沼意知の姿を、誰袖が見とれていました。
そこに他の花魁が現れ、意知と楽しげに話し始ました。
すると誰袖は「その方はわっちの色でありんす」と誰袖が2階から飛び降りてつかみ合いの乱闘が起きます。
(証拠にはならず)
田沼意知は蝦夷地を幕府の直轄地にしてロシアとの交易や鉱山の開発を行うことで歳入を増やし幕府の財政を健全化しようと考えていました。
そのためには蝦夷地を上知にする理由が必要で、それを探していました。
その1つ、抜荷の証拠になるかもしれない地図は須原屋から入手しました。
となると、もう1つは「現物」です。
以前、松前道廣が大文字屋に「いっそそれをわしとお前でやらぬか?松前家と吉原でひとつ琥珀で大儲けせぬかという話だ」と誘われたことから、松前藩が抜荷をしている証拠を探しだしたいと考えていました。
そして、その弟・松前廣年が誰袖に大量の琥珀を届けに来ました。
この琥珀が松前藩の抜荷を示す証拠品にならないかと期待しましたが、これは正規ルートで商人を通して購入した物でした。
これでは、松前家が琥珀をロシアとの直取引をした=抜荷の証拠ではなく、すなわち蝦夷地を上知にする理由にはならず、隣で聞いていた意知はがっかりします。
(灰処理競争)
さて、日本橋・・・。
翌日、鶴屋が、早急に灰を川や空き地に捨てよとの奉行所の指示を店々に伝えました。
すると、それを聞いた重三郎は、積もった灰の上に棒で線を書き、「灰を捨てるなら右側と左側で、どっちが早く捨てる事が出来るか競争しましょう!と提案します。
この提案に村田屋は「くだんねえ、遊びじゃねえんだよ」と怒鳴ります。
しかし重三郎は「遊びじゃねえから遊びにすんじゃねえですか!面白くねえ仕事こそ面白くやんねえと」と言い、勝ったチームには10両の賞金を出すと言います。すると鶴屋も15両出すと乗ってきました。
こうして賞金がかけられた灰捨て競争は大いに盛り上がります。
男たちが協力して桶を渡し、街の女たちが応援し人々が一つになります。
この灰処理競争は最後の1桶となったところで鶴屋組の方が進んでいました。
そこで、逆転しようと重三郎は2つの桶を同時に持って駆け出し、そのまま勢い余って川に飛び込みます。
川に落ちた重三郎・・しばらく姿がなく皆が心配する中、ようやくが助けられます。
助けられた重三郎は「30も越えたんで、そろそろ泳げるようになってるかと思ったんですけど」と言い、この回答に鶴屋も思わず笑ってしまいます。
重三郎の機転と日本橋の店を守る行動をとった行動が日本橋の本屋たちの意識を変えたのかもしれません。
火山灰運びの勝負は引き分け。
そして火山灰運びを行った皆々で宴会が開かれました。この席で重三郎はお座敷遊びをして場を盛り上げます。
こうして皆が協力して作業を行い、その労をねぎらう事で重三郎は皆に顔を売り、皆と打ち解けようとしていきます。
(お譲り致す)
重三郎が宴会を抜け、丸屋に向かうと、ていが一人で店の床を拭いていました。
その姿を見て重三郎も一緒に掃除をし始めました。
すると、ていは「蔦重さんは『陶朱公』という人物はご存知ですか?越の武将だった范蠡(はんれい)です」と話しかけます。『陶朱公』は、戦から退いた後に、いくつかの国に移り住んで土地を富み栄えさせた人物です。重三郎にも、陶朱公と同じような才覚がある」と、話したのです。
つまり、ていは、これまでの「重三郎全面拒否」という姿勢が変わったのです。
そして「店を譲るならそういう方にと思っておりました」と重三郎に店を譲ることを承諾します。
さらに、自分は明日店を出ていき出家するつもりだけれども、みの吉達奉公人を働かせてほしいと頭を下げました。
これを聞いた重三郎は、「俺ゃ人付き合いしか能はねえけど、女将さんみてえな学はねえし…俺ゃこんな店動かすのは初めてですけど、女将さんは生まれた時からここにいるわけで…陶朱公の女房になりませんか?」と提案します。
つまり夫婦になって協力して、ここをいい店にしていこうと言います。
重三郎の問いに対していは、「日本橋は「みせ(店・見世)」ではなく「たな」の方が馴染みます。あと、「俺」ではなく「私」。日本橋の主に「俺」はそぐいません」と答え、求婚にたいする返事ははぐらかします。
(恋愛)
さて、こちらも恋愛・・吉原大文字屋です。
意知は誰袖への想いを詠んだ狂歌を書いた扇を誰袖に贈ります。
出会って1年半。好いた女に何をさせておるのだと私は己を責めるよりほかなくなる。いっそ蝦夷などやめればと思うようになるかもしれぬ・・と自分のいまの気持ちを伝えます。
それを聞いた誰袖は「では、お許ししんすゆえ、ちょいとわっちの袖のもとで死んでみなせんか」と言い意知の歌になぞらえて意知を膝枕します。
(祝言)
吉原駿河屋の座敷では。吉原の親父達が見守る中で、重三郎とていの祝言が執り行われています。
こうして、ていと重三郎は「形だけの夫婦」となりました。
そこへ鶴屋がやってきました。
これまで幾度となく「吉原者」とさげすんだり妨害をしてきた鶴屋が、こうしためでたい席に登場したので、吉原の親父達は身構えます。
しかし、鶴屋は、通油町からの祝いの品である暖簾を届けに来ました。
そして「日本橋通油町は蔦屋さんを快くお迎え申し上げる所存にございます」と丁寧にあいさつをします。
鶴屋から祝いの品として店の暖簾、それは、日本橋通油町が蔦屋耕書堂を歓迎する気持ちを表したものでした。
こうして鶴屋や日本橋の方々に認められた認められた重三郎は、1783年(天明3年)9月
蔦屋耕書堂を日本橋に開業しました。
また次回
<<おまけ>>
吉原遊郭があった地域を歩きましたが、
そこには当時の名残が残っていました。
<吉原神社>

<吉原弁財天(よしわらべんざいてん)本宮>

<見返り柳>

この3つは、すべて歩いて行ける距離にあります。
吉原は京の島原(京都市下京区)、
大坂の新町(大阪市西区)と並んで
三大遊廓と呼ばれていました。
京都島原遊郭跡地は行ったことがあります。
・・・ということで
2025年(令和7年)の大河ドラマ「べらぼう」
第25話「灰の雨降る日本橋」の紹介でした。
