
1931年(昭和6年)6月27日、
東京の参謀本部から派遣され、
満州の興安嶺方面を偵察だった中村震太郎大尉、
井杉延太郎元曹長、従者のモンゴル人・ロシア人の
合計4名が、蘇鄂公府で中国軍に殺害されました。
中村大尉事件です。
(対ソ戦略)
1931年(昭和6年)、陸軍参謀本部の中村大尉は、参謀本部から対ソ戦略をにらんで満州兵要地誌調査の命を受けていました。

中村震太郎に同行した井杉延太郎予備曹長は、旅館経営者で蒙古語に達者でした。

https://dl.ndl.go.jp/pid/1024532/1/56
(潜入)
6月上旬、中村は農業技師と身分を偽って, 井杉延太郎元曹長、従者のモンゴル人・ロシア人の合計4名と北満の洮索(とうさく)地方に潜入しました。

彼らが潜入した地域は中国側からは立ち入りを禁止されていた地域で、張学良配下の興安屯墾隊などが駐屯していました。そのため、この地に日本人が入り込むのは非常に危険なことでした。
さらにこの時期は、日中関係が緊迫していました。

6月27日、一行は、蘇鄂公爺(そかくこうや)廟近くの村落で関玉衡が指揮する中国屯墾軍第3団の兵士に捕らえられました。
そのとき、調べに出てきたのが中村大尉と陸軍士官学校同期の関玉衡中佐でした。
そのため関玉衡中佐は、中村大尉を見て「おお!中村君!」と握手を求めて手を出しました。
しかし中村は身分や任務がばれることを恐れたのか無視します。これで関玉衡中佐は嫌悪感を感じます。
さらに手を伸ばす関中佐に対し、中村大尉は、その腕を取って背負い投げをしたというのです。(これには諸説あります)
これで関玉衡中佐が、まずます悪意を感じたのは間違いないでしょう。
また取調の中で一行が違法薬物のヘロインを所持していることも判明しました。
こうして、中村大尉や井杉延太郎元曹長など4人全員は射殺されました。


https://dl.ndl.go.jp/pid/1024532/1/55
7月1日、射殺された4人の遺体は、証拠隠滅のため焼かれます。
そして一行が所持していた金品、護身用ピストルなどが、隊長の関玉衡とその部下が略奪しました。
しかし略奪したピストルが日本製であったため、奪ったものの使用方法がわかりませんでした。
(事件発覚)
この事件が発覚したきっかけには、色々な説があります。
まずは、略奪した金の分配に対して不満を持ったものが漏らしたため、この真相が明らかになったという説です。
中村大尉事件について述べた1931年(昭和6年)に発行された「日支戦争記 : 満蒙問題の清算?」の81ページに記載されていました。


https://dl.ndl.go.jp/pid/1024532/1/51
一方、「関玉衝の妾であった九州出身の日本人が真相を漏らした」との説を記した書物がありました。

https://dl.ndl.go.jp/pid/1258865/1/150
また、「証拠隠滅のために焼いた炎が激しすぎて不審に思った住民が通報した」との説もあります。
(高まる反中意識)
惨殺された中村震太郎大尉に関して、日本側は、中国政府に抗議します。
しかし、中国側は、この事件に関与していないと否定します。
8月17日、奉天特務機関が事件の全貌を正式に発表します。

https://dl.ndl.go.jp/pid/1024532/1/53
(満州国建国へ)
この発表を受け日本のメディアがこの事件の全貌を報じると、国民の反中感情が高まりました。
そして9月18日に中国側がようやく殺害の事実を認めました。
同日夜10時20分ごろ、柳条湖事件が発生します。
そして、満州国建国へとつながります。

・・・6月27日は満州国建国につながったともいえる
中村大尉事件が起きた日です。