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大河ドラマ べらぼう 第23回「我こそは江戸一の利者なり」ネタバレあらすじ 

2025年(令和7年)のNHK大河ドラマは「べらぼう」です。
この物語は、1750年(寛延3年)1月7日に、江戸時代の遊郭・吉原で生まれ、1797年(寛政9年)に亡くなった人物でいわゆるプロデューサー蔦屋重三郎の物語です。
彼が手掛けたエンタメビジネスは、現在の日本文化やエンタメに影響を与え続けています。

2025年(令和7年)6月15日(日曜日)、NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の第23話は「我こそは江戸一の利者なり」です。
それではストーリーを見て行きます。
(たくらみ)
蝦夷地を江戸幕府の直属地としロシアとの交易や鉱山の開発を行うことで歳入を増やし、幕府の財政を健全化しようと考える田沼意知は、大文字屋の入り口で偶然、蔦屋重三郎と再会します。
そして重三郎に、計画を打ち明け、一緒にやろうと誘います。
しかし、重三郎は「手前のことで手一杯なんで」と丁重に断ります。
これを聞いた意知は「気が変わったら言ってくれ」と返します。
さらに意知は、「この話は他言無用で頼む。花魁のためにも」と返答します。
重三郎は、この意知の言葉から、この件に「大文字屋」の花魁・誰袖が関与していることに気が付きます。
翌朝、重三郎は誰袖に、足を突っ込むのは危険すぎると忠告します。

すると、そのとき、二代目の大文字屋がやってきて「ぬクけケにキ」と意味不明の言葉を発します。
その言葉の意味を知った重三郎、蝦夷をめぐる動きに、二代目大文字屋も一枚噛んでいることに気が付きます。
蝦夷地)
須原屋に重三郎がやって須原屋市兵衛に蝦夷地について尋ねます。
須原屋市兵衛は、蝦夷の絵図を見せながら、「北の果てにある土地で、ここに松前家ってのがあって、この辺りが蝦夷地だな。こっから先はオロシャ(ロシア)。どんな所だか行ってみてえよな」と語ります。
このとき重三郎は、絵図の中のある印に気が付きました。
そして「この印ってなんです?」と尋ねると須原屋市兵衛は「誰にも言うんじゃねえぞ」と断ったうえでヒソヒソと話します。
さて、何を話したんでしょうか・・・
(江戸一の利者)
1783年(天明3年)
蔦屋重三郎は勢いを得ていました。
『万載狂歌集』が大ヒットし、四方赤良こと大田南畝も大人気!耕書堂から出した大田南畝狂歌の指南書『浜のきさご』や北尾政演の錦絵『青楼名君自筆集』も飛ぶように売れました。
そして蔦屋重三郎は、江戸一の「利き者」(ききもの)として、名を知られるようになったのです。
ふじから「風雲児」と呼ばれた重三郎に対し、駿河屋の主人は、いい気持がしません。「吉原におんぶに抱っこで何が風雲児だ」と不満げです。
(周りを固めていく田沼)
江戸城では、田沼意次が、要職を田沼派で揃え、嫡男・意知を特例で奏者番に抜擢するなど盤石の体制を固め、権勢を誇っていました。

また、土山宗次郎も田沼意次に近づいたことで豪華な暮らしをしていました。

「願わくば田沼様とは思へども せめてなりたや公方様(将軍様)には」と歌が詠まれるほどです。

長谷川平蔵は、田沼派の勘定奉行・土山宗次郎と仲良くなる=お近づきになるため、江戸で、はやりはじめた狂歌を身に着けようと努力をしていました。
(酔月楼)
平蔵と佐野たちは、土山宗次郎とのパイプを構築しようと、土山宗次郎が牛込細工町に建てた豪邸「酔月楼」に足を運びました。
酔月楼では、連日、文化人や富裕層の商人やその妻、妾たちが参列し、豪華な「狂歌の会」が繰り広げていました。
その光景に度肝を抜かれた佐野は「これは350俵の組頭の屋敷ではなかろう。」と呆気に取られます。
一方、平蔵は「田沼さまの覚えがめでたければ350俵でもこういうことも出来る」と感心します。
さて、お目当ての土山や大田南畝ですが、有名人なので周囲には人だかりができて、2人はなかなか近づけず、そのきっかけを作るタイミングさえない状況でした。
すると偶然、平蔵は和泉屋に酌をする重三郎を見つけます。
そして平蔵はこれ幸いと、重三郎に声を掛けます。
ここは重三郎は商人。声をかけられたらきちんとやるべきことをこなし先方の期待に応えます。
重三郎のおかけで、2人は土山や大田南畝に紹介されます。
平蔵たちを案内した重三郎は、南畝からは「あ~!来たか、蔦唐丸!」と言われ、さらに土山には「江戸一の利者は350俵の勘定組頭などは後回しか?」と親しげに軽口をたたかれ冗談交じりで歓待されます。

ここで長谷川平蔵は、これをチャンスとネットワークを築こうとします。平蔵は、「一つ赤良先生に大いにモテそうな名をお願いしたく」とお願いし、南畝は「稀代のモテ男、在原業平にちなんで…有金無平(ありがねはなきひら)」と即座に命名します。
このように初対面なのにすぐに打ち解けた平蔵ですが、一方の佐野政言は、自ら名を名乗ることすらできず帰ってしまいました。重三郎は佐野を心配します。

日本橋に店を出さないか?)
この席で土山宗次郎は重三郎に「お前、雲助様の誘いを断ったそうじゃないか。この話の先にはあらゆる儲け話が転がっておるから、一枚噛んでおけば、いずれは蝦夷地の本屋商いを取り仕切るなどということもできようになる」と話し、さらに「買ってやろうか?店 日本橋にでも」と言います。
当時日本の中心であり、将軍のおひざ元である江戸、その江戸の1番の場所が日本橋でした。その日本橋に店を構えるというのは1流の証であり、信用も付きます。
しかも「買ってやろうか」とパトロンになってくれるというのです。
この土山宗次郎の魅力的な提案に対し、重三郎はまんざらでもありません。
(吉原にいるから、ちょいとカッコよしなんだよ)
重三郎は家に戻り、土山から提案された、日本橋に店を出すという話を歌麿にしました。
しかし、歌麿は、土山が、店を買う条件として、毎年、土山へ運上納めることを提示したと聞かされ「それ間違いなく得するのは土山様だけだよ。江戸一の利き者が江戸の外れの吉原にいる、それが粋に見えんだよ」と冷静に発言します。

そして歌麿は、店仕舞いをしながら、「蔦重は吉原にいるから、ちょいとカッコよしなんだよ」と言い添えます。

その歌麿の読み通り、ある夜、土山は大文字屋で意知と酒を酌み交わした席で「江戸一の利者の本屋は土山のもの。こりゃあなかなか気分がようございますし、そうなれば自ずと蝦夷の話にも引き込めましょうし」と話していました。
つまり、全部計算ずくです。
(吉原のお陰でお前はここまでんなれたんだ!)
翌日、駿河屋とりつに呼び出された重三郎は、吉原の馴染客に作ってもらいたいグッズ一覧表を見せられます。
この要請を重三郎は多忙を理由に断ろうとします。
すると駿河屋が不機嫌そうに「お前ぇ、近頃いい気になってやしないか?」と攻めます。
重三郎が「俺の?どこがです?」と聞き返すと「前だったらこんな話、間違いなく乗り気んなったろ?吉原のお陰でお前はここまでんなれたんだ!俺達が手え引いたらその日に潰れんだからな」と脅しに近い口調で怒鳴ります。
それを聞いた重三郎は渋々引き受けることにしました。
(誰袖)
さて大文字屋。
田沼意知と土山宗次郎が2人だけで酒を酌み交わしていると、隣の座敷から声が聞こえてきます。2人は、ふすまを少し開け覗き見します。

松前道廣の弟・松前廣年が、十文字屋と誰袖と話をしていました。
廣年は10歳離れた異母弟で「北辺の鬼」と呼ばれる兄・道廣とは真逆の大人しく優しい男性です。松前藩江戸家老を務める一方で絵師としても活躍しました。
十文字屋は「揃いの琥珀のかんざしを女郎たちに身につけさせ、流行らせたい」と申し出ます。
誰袖が「主さん、琥珀というものはなにゆえかように高いのでありんすか?」と聞くと松前廣年は「そりゃあ商人が利を乗せるからだな」と答えます。
すかさず誰袖が「では商人を通さず直にオロシャから主さんがお買い付けになることはできぬのでありんすか?そうすれば安く手に入りんしょう?」と言うと
「ならぬ!それでは抜荷となってしまう!異国と勝手に取引をするはご法度!
下手をすれば取り潰しじゃ!」と叫びます。
誰袖が「けんど、主さんが安く手に入れ親父様に高値で買わせれば、相当な金がお手元に残りんしょう?」と言うと松前廣年は「差し出口をきくな!女郎ごときが!」と声をあげます。
すると、悲しい顔になり涙ぐむ花魁。
この時「出た!!」と大文字屋。
誰袖は「わっちは、その金があれば、主さんともっとお会いできるかと思いんして…」と泣き出します。
この状況に、松前廣年は「これ泣くでない、一つ考えてみるゆえ」と言い、
誰袖は「嬉しいありんす、主さん・・・ぜひいつの日か身請けを・・・」・・・。
おおおお!!見事な泣き芸!!なんという誰袖の作戦でしょう!!
これでは松前廣年は轟沈!メロメロです。
意知は、このやり取りを隣の座敷から覗いていました。
そしてその意知に誰袖は意味ありげに笑みます。
ある意味怖いシーンです。
日本橋の店が空く)
重三郎が小泉忠五郎と細見の打ち合わせをしていると、忠五郎が「鶴屋さんの向かいの店、空くって噂だぜ、どうだい、ここらでいっそ吉原出て日本橋に打って出るってなあ。俺達みたいな小店の奴がよ、面白えじゃねえか」と言いました。
しかし、その店の値段1000両と聞き、重三郎は、それじゃあ無理だあとため息をつきます。
(西村屋との違い)
重三郎が呼び出されて、駿河屋の2階へ行くと、白木屋彦太郎を始めとする日本橋の呉服屋の重鎮たちが顔を揃えていました。
白木屋は、後の百貨店白木屋の元になる豪商です。
(西村屋の販売力)
しばらくして、重三郎は、日本橋の呉服屋達から、駿河屋に呼び出されます。
白木屋は、花魁を描いた西村屋の錦絵「雛形若菜」(ひながたわかな)がもっと売れるように、吉原もみなで協力して欲しいというのです。

しかし、蔦屋重三郎は、同じように、花魁の錦絵「青楼名君自筆集」(せいろうめいくんじひつしゅう)を売っているため、この要請を受けるかどうかと迷います。
重三郎の「青楼名君自筆集」と西村屋の「雛形若菜」は、双方とも錦絵で、花魁の着物が描かれています。
「雛形若菜」の方が西村屋が販売しているために、宣伝力が高いために、「雛形若菜」を売ることは、結果として花魁の宣伝につながるために吉原にとっても悪い話ではありません。

白木屋が言うには、西村屋には、江戸以外から大口の買付が来て、京都、大阪、名古屋、仙台と幅広く販売できるのだと話します。つまり販売ネットワークと販売数が段違いに西村屋の方が優れているというのです。

これを聞いた重三郎は「見ててくだせえ!あっという間に日の本じゅうに流れるようにしてみせますから!」とタンカを切ります。
白木屋は「わかりました。しばらく待ちましょう」と穏やかに答えると、この日は引き下がります。
(吉原あっての蔦重だろうが!!)
この会話を見ていた駿河屋は「おい、おめえ、おめえ、おめえ…何勝手なこと言ってんだ!」と激怒し、りつも「そうだよ。吉原にとっちゃ双方あるほうが…」と重三郎にとい詰めます。
重三郎は「うちの品を売れるように計らうのは当然じゃねぇっすか」と言いますが「しゃらくせえ!吉原あっての蔦屋だろうが」と返されます。

重三郎は「親父さま、近頃はうちに金だしてえって人もいんですぜ」と反論し、雰囲気が険悪化しますが、ここは、りつが「まあまあまあまあ」と割って入って調整します。
和泉屋三郎兵衛の葬儀)
そこへ松葉屋半左衛門と丁子屋長十郎がやってきました。彼らによると、和泉屋三郎兵衛が急死し、その葬式が行われるとのことでした。

和泉屋三郎兵衛と重三郎は先日、酔月楼で会ったばかりでした。
そのため重三郎は和泉屋三郎兵衛の急死を驚きます。
そして吉原の親父殿は、和泉屋三郎兵衛の葬儀に参列することを望まれます。
りつは「迷うとこだね、あたしらが出るのを嫌がる人も多いからね」と悩みますが、
長十郎は、「息子である現当主からわざわざ見送ってほしいという話が来たんで参列しよう」ということになりました。
知名度の差)
重三郎は「青楼名君」を片手に日本橋の西村屋へと入る行商人たちに次々と声をかけます。
しかし地方から来た行商人たちは重三郎に無関心で相手にされません。重三郎や耕書堂は名が知れていないことを痛感します。
(いざ日本橋に店を!)
重三郎は、須原屋から「江戸の外に商品を流通させたいなら日本橋に店を出すしかない。西村屋や鶴屋の品が江戸の外まで流れんのは、突き詰めりゃ日本橋に店があるからよ。地方の商人たちは、日本橋こそが一流店、そこで買った品なら間違いないと考えている」と言われます。

しかし、立場上「吉原から出る」などとは、主人たちに言える雰囲気ではありません。

それを察した須原屋は「それでもよ、俺ゃ日本橋にでてもらいてえ、源内さんのためにもよ、お前さんはよ、今、江戸で一番面白えもんを作ってるんだ。それを日の本津々浦々にまで流すということは、この日の本人々の心を豊かにすることじゃあねえの?耕書堂って名にはそういう願いが込められてんじゃなかったか?」と畳みかけます。
重三郎は心を決め、その帰り、和泉屋の弔いに遠目から手を合わせます。
(吉原もん)
さて、吉原の親父達は、和泉屋の弔いに誘われたので参列したのですが、参列者のゆがんだ視線を浴びます。
そして「吉原もん」と蔑まれ席を同じくしたくないと言われ、地べたに移らされます。途中、雨が降り始めましたが、屋根がなく濡れたままという辛い差別を受けました。

その翌日、忘八楼主たちは寄合のなかで、和泉屋の葬式で受けた屈辱を語ります。
親父達は「いつものこと」と諦めたような態度ですが、松葉屋半左衛門が「前より女郎や芸者には気を配ってんだけどねぇ…」と。
丁子屋長十郎は「俺ぁときどき言ってやりたくならぁね。このままじゃ食えなくて死ぬしかねぇ子を兎にも角にも食わせてんのは誰なんだってよ」と不満をぶちまけます。
日本橋に店を出したい)
そこにやってきた重三郎は「皆様にお願いがございます。日本橋に店を出させてくだせえ!」と深々とお辞儀をします。
若木屋与八は、「お前、そんなことしたら吉原の店はどうすんだい?」と驚きます。
駿河屋は「てめえの名が上がったらおさらばか!誰のお陰でここまでなれたと思ってんだ!忘八にもほどがあんだろが!!」と殴り階段から突き落とします。
蹴り落とされた重三郎を見たふじが、「重三、重三郎。大事ないかい?重三」と心配そうに抱き起します。
重三郎は「俺ゃ忘八でさぁ」とまず一言。
続いてゆっくりと立ち上がり、階段を一段一段上りながら、
「けど親父様、俺ほどの孝行息子も、また、いませんぜ。江戸の外れの吉原もんが、日本橋のまんまん真ん中に店、張(る)んですぜ…そこで商いを切り回しゃ、もう誰にも蔑まれたりなんかしねえ」と主張します。
さらに「日本橋で成功した暁には、それどころか見上げられまさぁ。吉原は親もねえ子を拾って、ここまでにしてやんだって。てえしたもんだ、吉原の門たあ、丑寅の門たあ、丑寅の門は懐が深えって…俺みてえな奴が成り上がりゃあその証になる…」と言い、「そりゃあこの町に育ててもらった拾い子の一等でけえ恩返しになりやしませんか?」と持ってきました。
そして階段を上り切った重三郎は、親父達に「皆さま、ひとつ俺に賭けてくだせぇ」と懇願します。
このとき、大黒屋の女将りつに、「勝ち目はあるのか」と問われた重三郎は、自分には「喜多川歌麿」をはじめ、「朋誠堂喜三二」、「恋川春町」といった日本一の絵師や戯作者がいると答えます。そして「今、俺に足りねえのは日本橋だけなんでさ」と付け加えます。
重三郎は成功への、お膳立てはできているので、後は「地の利」=日本橋に出店するだけだ と言うのです。
こうして吉原の総意をもって、蔦重の日本橋進出を支えることが決まりました。
(切り札) 
再び春が訪れました。
そして、いよいよ、鶴屋の向かいにある本屋が売りに出されることになりました。
この本屋を買い取ろうと考えていた重三郎ですが、問題がありました。
その地本問屋が丸屋小兵衛でした。
岩戸屋源八から聞いた話によれば、重三郎が往来物を成功させたことで、上得意の師匠筋をすべて奪われてしまい、経営難になったとのことです。いわば重三郎は商売を追い込んだ「敵」・・。

さらに、松葉屋、丁子屋が聴き込んだところでは、丸屋の一人娘の元・入り婿が扇屋の花扇に夢中になり、店の金を横領したことが店が傾いたという原因だということです。この2つの要因は吉原が絡んでいるために丸屋は、すんなりと吉原に打ってくれる可能性は非常に低いようです。
それを裏付けるかのように、丸屋の一人娘のていが鶴屋喜右衛門へ「吉原の蔦屋耕書堂だけは一万両積まれようともお避けいただきたく」と懇願しています。
さらに難問として、そもそも、吉原者が市中の物件を買うことが禁じられてもいます。この「吉原の者には屋敷を売ってはならない」という決まりをどうするものか、と悩んでいた吉原の主人たちの前に扇屋が一人の男を連れてきました。
さてさて、どうなるか、、、次回

<<おまけ>>

吉原遊郭があった地域を歩きましたが、
そこには当時の名残が残っていました。

<吉原神社>

吉原弁財天(よしわらべんざいてん)本宮>

見返り柳

この3つは、すべて歩いて行ける距離にあります。

吉原は京の島原(京都市下京区)、
大坂の新町(大阪市西区)と並んで
三大遊廓と呼ばれていました。

京都島原遊郭跡地は行ったことがあります。

・・・ということで
2025年(令和7年)の大河ドラマ「べらぼう」
第23話「我こそは江戸一の利者なり」の紹介でした。




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