福岡市中央区薬院──
高層マンションが建つこの場所には、
太平洋戦争末期に、ある軍の施設がありました。
「陸軍振武寮」。
ここには生還を許されなかったものの帰還した
特攻隊員たちが秘密裏に収容されていました。
(今も残る「陸軍」と刻まれた陸軍票石)
福岡県福岡市、地下鉄七隈線の薬院大通り駅から徒歩2分の場所に、西鉄バスの南薬院のバス停があります。住所で言うと福岡市薬院4丁目です。
下の写真が、南薬院バス停です。
隣は福岡県警の官舎で、その境となる歩道に石票があるのがわかります。
近づいて見ると、埋もれているものの「陸軍」と書かれている事がわかります。

このすぐ近くにはさらに2つの陸軍標石がありました。


かつて、ここ一帯には陸軍省福岡連隊区司令部がありました。
また、1945年(昭和20年)3月10日、陸軍の第六航空軍司令部が東京から福岡の地域には移転し、その軍司令部が福岡県立高等女学校に置かれました。福岡県立女学校は現在の、福岡中央高校です。
(福岡女学園寄宿舎が振武寮に)
軍司令部のあった福岡高等女学校(現・福岡県立福岡中央高等学校)から道路を挟んだ、向かい側には、当時は福岡女学校(現・福岡女学院中学校・高等学校)がありました。
下の写真の左が、現在の福岡中央高校で、道路を挟んだ右に当時は福岡女学院がありました。

福岡女学校(現・福岡女学院中学校・高等学校)はセーラー服発祥の地として有名です。

陸軍が、その福岡女学院の寄宿舎を接収して「振武寮」が設置しました。
下の写真は1945年(昭和20年)5月1日に撮影された振武寮です。
戦後、振武寮の所在地には九電記念体育館が建っていましたが、2025年(令和7年)6月現在は高層マンションが立ち並んでいます。

(「特攻隊=全員戦死」ではなかった)
特別攻撃隊、いわゆる“特攻隊”に参加し戦死した兵士はおよそ4,000人。
命を捧げ国を護った彼らは「軍神」として崇められ、大本営はその華々しい戦果を発表しました。
当時の国民は「出撃した特攻隊員は全員、体当たりを行い、命を投げうった」と信じて疑いませんでした。

しかし実際には、すべての特攻隊員全員が戦死したわけではありません。
エンジントラブルや天候不良、敵機に阻まれたなどの理由で突入できずに、生還した隊員もいました。
(死んだはずだった特攻隊員が生きている──軍にとっての“都合の悪い存在”)
しかし、「命を投げうって戦ったはずの特攻隊員たち」が、実は生きていたとなれば
都合が悪くなります。
さらに、帰還兵の姿を他の出撃前の隊員が見れば、士気に関わります。
・・・ということで、軍は生き残った特攻隊員たちの多くを人目につかないように福岡市にあった振武寮に送りこみます。
なぜ福岡市なのか・・・。1945年(昭和20年)3月10日、第6航空軍は、司令部を東京から福岡に移転し、その軍司令部を福岡県立高等女学校に置きます。
その関係で福岡県立高等女学校の寄宿舎を接収し、ここを帰還した特攻隊員を収容する振武寮とします。
(振武寮)
死んだと思われたものの生きていた特攻隊の帰還兵が送り込まれた振武寮・・・。接収した福岡県立女学校の寄宿舎で建物は2階建てで、1階は下士官、2階が将校用であり、2名が居住する8畳の部屋に収容された隊員が寝泊まりしていました。
『振武寮』という看板が掲げられ、塀と鉄条網で囲われていました。
小銃を携えた歩哨が2名立っていて、施設からの外出は禁止、手紙や電話も含めて外部との接触も厳禁、食事と用便以外は部屋を出ることも禁止、他の入寮者との会話も禁じられていたとされます。
振武寮に送られた最大80名の特攻隊員のなかで、一番多かったのは、各基地から出撃し沖縄に行く途中に目印とした喜界島からの帰還者でした。機体の故障などで、この島に不時着したのです。
振武寮に送り込まれた特攻隊員は「振武寮に入って、周囲を見たところ、出撃して死んだと思った者がみんなごろごろしておったんで、びっくりしました。そしてここが、特別攻撃隊の収容所だと気が付きました。」と語っていました。
振武寮では、菅原中将のもとで沖縄特攻作戦を推進した参謀の倉澤清忠少佐がその運営に携わる参謀約5名の中の一人となりました。

倉澤参謀が特攻兵に、「貴様ら何で帰ってきた?」と問うので「飛行機が悪かったんであります」と返したら、「悪かったのはお前の腕前だ」とののしられたこともあったそうです
振武寮での、隊員たちの生活は毎日、反省文の提出、軍人勅諭の書き写し、写経などでした。
特攻隊員の中には「軍人勅諭を書き写すことよりも特攻機を下さい。亡くなった戦友たちが待っているんです。毎日軍人勅諭を書いて何になりますか」と再出撃を希望したものも多かったそうです。
隊員たちは、この振武寮で連日罵倒され、足腰が立たなくなるほど殴られた人もいました。またこのような環境に絶えきれず、自殺した人もいるそうです
ただし、このような扱いを受けた特攻隊員は、重謹慎を受けていた、一部の人でした。
収容された特攻隊員の中に、処遇に違いがあったそうです。
(自由な雰囲気も)
振武寮は建前上は、外部との接触禁止でしたが、6月には、近くの会社の女子社員とのお茶会が開催されたり、福岡高等女学校や福岡女学校の女学生の慰問を受けることもあり、また外出できるなど自由な面もあったそうです。
第67振武隊山岸聰少尉は女学生の1人と懇意になり、振武寮を抜け出して福岡市にある大濠公園で何度も逢い戦後にその女学生と結婚しています。

この話を聞いて、おっさんは実際に振武寮があったとされる場所から大濠公園まで移動しました。福岡市営地下鉄七隈線で2駅(薬院大橋→桜坂→六本松)、歩くと30分以上かかりました。ということを考えると、この山岸聰少尉は根性ありますねえ・・。
(福岡大空襲とその後)
1945年(昭和20年)6月19日深夜から福岡は大空襲を受けました。(福岡大空襲)
200機を超える大型爆撃機B-29が福岡市を襲いおよそ2時間にわたって大量の焼夷弾を投下しました。その結果、天神から博多を中心とした市中心部が焼け野原になり
1000人もの死者・行方不明者を出しました。
このとき、振武寮の近くに焼夷弾が落ちて延焼しかけましたが、隊員たちが消火活動を行い、半焼にとどまりました。
しかし翌日、振武寮は事実上の閉鎖となり、隊員たちは原隊へ戻されました。
そして第6航空軍司令部やその施設は福岡大空襲後、平尾の山中に移転することとなりました。
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(振武寮跡地は今──歴史の痕跡が消えた場所)
現在、振武寮があった場所には、高層マンションが建っています。
福岡中央高校の道を挟んで対面と、西鉄バスの「浄水通り」バス停の裏にある広大な敷地です。
ここには、当時の名残となるものは何も残っていません

戦争の悲劇と「生きてはならなかった兵士たち」の秘密は、現代の風景の中に静かに消え去り、歴史の片隅に追いやられているのです。
「歴史を忘れない」という願いは、こうした場所の記憶が風化しないように語り継ぐことから始まると思います。

