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6月2日、英国二隻の攻撃に成功した2人の日本兵 マダガスカル島で散る ~太平洋戦争で日本軍は、アフリカ・マダガスカル島でも戦っていました~

 

1942年(昭和17年)6月2日、
アフリカマダガスカルの地で
敵艦二隻の攻撃に成功した2人の日本兵が死亡します。

(日本軍アフリカ沖で戦闘)
1941年(昭和16年)に勃発した太平洋戦争・・・。
この戦争では日本軍はアフリカのマダガスカル島でも戦っています。
マダガスカル島・・・下の地図を見てわかるように日本から凄く遠いです。
こんな場所でも日本兵は戦ったのです。

(どうして日本軍はマダガスカル島で戦ったのか?)
さて、日本からこんなに遠いアフリカのマダガスカル島で、どうして日本軍がたたかったのか・・・そう思う方がいると思います。

これには、欧州戦争と日独伊三国軍事同盟とがかかわっています。

1940年(昭和15)9月27日、ベルリンで調印された日独伊三国軍事同盟。
しかしドイツとイタリアは欧州にあり、日本とは地理的に遠いため、各国が協力して軍事行動をするのはなかなか容易ではありませんでした。
でも友好国なので攻撃要請は出来ます。

その1つが、マダガスカル島での戦いです

この頃、欧州ではフランスがドイツに降伏しヴィシー政権が出来ていました。

アフリカのマダガスカル島は、このヴィシー政権が支配していましたが、イギリス軍と戦闘となります。
そしてヴィシー・フランス軍の要請により、日本海軍は1942年(昭和17年)の4月下旬、5隻の潜水艦をマダガスカル沖に向かわせました。

(英軍2日でマダガスカル島占領)
1942年(昭和17年)5月5日に、イギリス軍は、マダガスカル島北端のディエゴ・スアレス西のクーリエ湾とアンバララタ湾に上陸します。
(ディエゴ・スワレスは1975年にアンツィラナナに都市名を変えました。)

下の写真は上陸するイギリス軍です。
そして、わずか2日でヴィシー・フランス軍は降伏し主力は南部に逃れてしまいます。

1942年(昭和17年)5月30日、英国に事実上占領されたマダガスカル島に到着した日本軍は、ディエゴ・スワレスを偵察し、その湾内に英国の艦船があることに気がつきます。

 

下の写真はディエゴ・スワレス湾に停泊するクイーン・エリザベス級戦艦のラミリーズです。

(日本軍、特殊潜航艇を投入)
ディエゴ・スワレスの湾に英国艦船を発見した日本軍は、特殊潜航艇「伊二十潜」と「伊十六潜」二艦による攻撃を行うこととします。

5月31日午前0時、二艦は特殊潜航艇を発進させます。
「伊二十潜」からは、艇長・秋枝三郎大尉、艇附・竹本正巳一等兵曹、
「伊十六潜」からは艇長・岩瀬勝輔少尉、艇附・高田高三二等兵曹が出撃しました。

下の写真は、1942年(昭和17年)に撮影された写真です。
前列の右端が岩瀬勝輔少尉、真ん中が秋枝三郎大尉、秋枝の後ろに立つのが竹本正巳一等兵曹です。

(英国缶2隻に魚雷命中)
特殊潜航艇は湾内への進入し、クイーン・エリザベス級戦艦のラミリーズと、重油やアルコールを搭載していた油槽船ブリティシュ・ロイヤルティに魚雷を発射します。

ラミリーズは大破し戦闘不能になります。
また、ブリティシュ・ロイヤルティは沈没します。
下の写真はラミリーズです。

(合流場所に来ず)
突入した特殊潜航艇は。攻撃が終了したら攻撃終了後に決めてあった収容場所に移動し、そこで潜水艦と合流する計画でした。しかし、2隻の特殊潜航艇は予定の時間を過ぎても現れることはなく、潜水艦はしかたなく帰還します。

マダガスカルの地で散る)
英国の記録では、「伊二十潜」の特殊潜航艇・秋枝艇の秋枝大尉と竹本一曹は、攻撃終了後、マダガスカル島に上陸します。そして、会合地点に向けて山道を踏破して海岸に到着しました。しかし、二人は住民により英軍に通報され、15名の英兵に包囲されました。
2人は降伏勧告を拒否し、拳銃で応酬しましたが、銃撃により死亡しました。
戦死日は英側資料では6月2日です。英軍は死亡1名、負傷4名でした。
なお、「伊十六潜」の岩瀬艇の行動に関しては確かな記録はありません。

 

・・ということで6月2日は、
アフリカ・マダガスカルで2人の日本兵が散った日です。

 




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