2025年(令和7年)のNHK大河ドラマは「べらぼう」です。
この物語は、1750年(寛延3年)1月7日に、江戸時代の遊郭・吉原で生まれ、1797年(寛政9年)に亡くなった人物でいわゆるプロデューサー蔦屋重三郎の物語です。
彼が手掛けたエンタメビジネスは、現在の日本文化やエンタメに影響を与え続けています。
2025年(令和7年)5月25日(日曜日)、NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の第20話「寝惚けて候」のストーリーを見て行きます。
(跡継ぎ騒動)
江戸城では、次の将軍選びが大きな問題となっていました。
老中・田沼意次と一橋徳川家当主・一橋治済が向かい合っています。
田沼意次は、一橋家の嫡男・豊千代を次期将軍にし、同じく御三卿の田安家の種姫を将軍の正妻の御台所として迎えたいという、江戸幕府10代将軍・徳川家治の意向を伝えました。
治済は、御三家・御三卿のなかで、将軍を継げる男子が他にいないので認めざるをえません。
しかし、豊千代はすでに、薩摩藩の藩主・島津重豪の娘である茂姫との縁談が決まっています。
そのため治済は、豊千代の正妻は先に縁組していた島津家の茂姫でなければ困る、と難色を示します。
そこで田沼意次は「茂姫を側室にすればどうか」と提案しました。すると治済も「なるほど」と納得した様子を見せました。
( 言い訳が立つなら・・・)
青本のランキング本『菊寿草』には 極上上吉、『見徳一炊夢(みるがとくいっすいのゆめ)』、蔦や座 という文字があります。
そう、これは喜三二の作品なのです。それが極上上吉でした!
さらに人気作家・恋川春町を得た重三郎・・。なかなかいい調子です。
その重三郎の耕書堂に、地本問屋の岩戸屋源八が重三郎を訪れ「見徳一炊夢」の仕入れを頼みます。
重三郎の本は買うなというルールがあるはずだと驚く重三郎に、岩戸屋源八は「今年一番の青本と称された『見徳一炊夢』なら、他の地本問屋達への言い訳が立つ」と言うのです。
「なんらかの言い訳があれば、耕書堂の本を扱ってもらえる」と考えた蔦屋重三郎は、あるアイディアを思いつきます。
(類似本作戦)
重三郎は、喜多川歌麿に、西村屋の看板商品である、錦絵「雛形若菜初模様」(ひながたわかなのはつもよう)の絵師を務める鳥居清長の画風を真似るように指示します。
そして重三郎は後日、吉原を訪れる旦那衆に、花魁の錦絵「雛形若葉初模様」(ひながたわかばのはつもよう)への入銀を呼びかけます。
この本のタイトルは、よく見ると西村屋の「雛形若菜初模様」と一文字違いです。
西村屋は「雛形若菜初模様」、重三郎のは「雛形若葉初模様」。「若菜」と「若葉」の違いです。
しかも、重三郎の本は、鳥居清長とそっくりの画風で喜多川歌麿に描かせた物です。
さらに入銀の金額は、西村屋の「雛形若菜初模様」の半分です。
この時期、西村屋が出す鳥居清長の絵を使った『雛形若葉』は値が張るために次々と注文がキャンセルされ、思うように売れていませんでした。
その半分の価格で似たような絵がある重三郎の花魁の錦絵「雛形若葉初模様」の存在を知り、次々に耕書堂に乗り換えるものが出てきました。
(耕書堂の本を扱わせろ!)
西村屋は追い詰められ、とうとう「雛形若菜初模様」の刊行を取りやめ、「吉原細見」の刊行も休止することになります。
すると、岩戸屋をはじめとする中小の地本問屋達は、売れ筋の耕書堂の商品が扱えないことに対し、鶴屋や西村屋に、重三郎の本を扱うことを認めるように迫ります。
また、これまで地本問屋が「蔦屋重三郎」を仲間外れにしていたため、耕書堂の本を求める客を逃してばかりだったも主張します。
そのため鶴屋は、市中の書店でも耕書堂の商品を扱うことをしぶしぶと容認します。
重三郎の作戦成功です。
これにより、重三郎の耕書堂は、吉原だけでなく市中にも販路を広げ、ついに江戸市中の本屋と取引ができるようになったのです。
・・・とはいえ、西村屋は重三郎に「錦絵の商売は簡単ではないぞ」と警告し、鶴屋は「耕書堂の商品を扱うつもりはない」と依然冷たい関係です。この関係は、これからどうなるのか・・・
(大田南畝)
「やぁ蔦屋殿、お主のような男がもっと増えれば、江戸は愉快でござろうな」・・・こう重三郎に声をかけたのは、大田南畝。
南畝は、重三郎が手がけた黄表紙『見徳一炊夢』の中にはある、町人の皮肉や生きる苦みを見抜いていました。
そして、重三郎は、須原屋市兵衛の紹介で、この大田南畝を訪ねます。
大田南畝は下級の御家人の家の生まれで、漢学に通じ、「神童」と呼ばれていました。19歳のときに書いた「寐惚先生文集」が大当たりし有名となります。
南畝は暮らしは貧乏ですが、何が起きても「めでてぇ」という明るい性格で、そんな南畝に、重三郎は「めでてぇ江戸案内でも書いてみませんか?」と誘います。
南畝は狂詩や狂歌、黄表紙や随筆など文芸全般に優れた著作を残した江戸時代を代表する文化人のひとりです。
当時の文化人は「狂歌」のジャンルにも積極的に取り組むようになっていきます。狂歌とは五七五七七の形式で言葉遊びや風刺を楽しむ詩。江戸の町人たちの間で人気が高まりつつある文化でした。
この出会いをきっかけに、重三郎は狂歌に強く惹かれるようになります。
なお、このとき、大田南畝を訪れた重三郎が手土産にしていた筒状に巻いたお菓子は、当時吉原に店を構えていた菓子屋「竹村伊勢」(たけむらいせ)の「手巻きせんべい」です。
(側室か正室か)
将軍の跡取り問題で騒ぐ中、薩摩から抗議の声がでます。
薩摩藩主・島津重豪が「うちの姫が側室では申し訳が立たぬ、正室でなければならない」と主張してきたのです。
意次との交渉の席で、島津重豪は、葡萄酒をふるまいながら、意次に「なぜ田安の姫を推すのか」と問い、意次は「家治公の意向ゆえ」と応じます。
やがて、この問題は決着し、豊千代が正式に家治の養子として迎えられ、西の丸に入ります。こうして将軍・家治の後継者は、御三卿の一橋治済の長男、豊千代になりました。のちの第11代将軍・家斉です。
また、茂姫が御台所になり、種姫は紀州徳川家に嫁ぐことに決まります。田安家は江戸城の中心から疎外されます。
徳川家治の養子に迎えられることになった豊千代が、生母と共に江戸城西の丸に入ることになり、これに伴い、将軍・家治の側室で、死亡した嫡男・家基の母でもある知保の方は、田沼意次から西の丸を去るように命じられました。
(狂歌)
恋川春町の新作『無題記』も完成し、耕書堂では、細見や青本、吉原本なども軒並み評判となります。市中の本屋たちが続々と重三郎の店に買い付けに来ます。
しばらくして、蔦屋重三郎は、大田南畝の招きで、義兄「次郎兵衛」と共に、「狂歌の会」を見学します。この会は男女の違いや武士、商人、町人なども関係なく参加できます。つまり性別も身分も世代も違う人々が集まり、自由な雰囲気のやりとりされていたのです。
この日のお題は「鰻」。よく見ると大田南畝の着物の柄がウナギの蒲焼き柄でした。南畝の詠んだ一首「あなうなぎ いづくの山の いもとせを さかれてのちに 身をこがすとは」これを現代語訳すると「どこの山の芋が成ったうなぎだか知らないが、妹背の仲をさかれたうえに、背をさき開かれて蒲焼になりながらも、相手のことを思い焦がれている」という意味です。
この歌のうまさは、各所にある「かけ言葉」です。
「芋」と「妹(いも)」を掛け、「背」と「夫」と掛けています。そして恋人同士の男女の意味である「妹背(いもせ)」は導きます。さらに「仲を裂かれる」「背中を割かれる」を掛けます。また「身を焦がす」は恋愛の情に苦しむさまと、うなぎが焼かれる姿を掛けました。こういう見事な歌を即興で読む素晴らしさです。
重三郎はその素晴らしさに心を打たれ、「すごい…これが狂歌か」とうなります。
このとき狂歌の会のスポンサーとして、ある武士が現れました。旗本の土山宗次郎です。田沼政権下、勘定組頭という要職についていました。今後は、重三郎も巻き込んで吉原の情勢や蝦夷地開発に深くかかわっていきます。
気分がいいお酒を楽しんだ重三郎は朝帰りをして、出迎えた歌麿に「狂歌、俺が流行らせる」と語ります。
いよいよ重三郎が狂歌を仕掛けていこうと動き出します。
<<おまけ>>
吉原遊郭があった地域を歩きましたが、
そこには当時の名残が残っていました。
<吉原神社>

<吉原弁財天(よしわらべんざいてん)本宮>

<見返り柳>

この3つは、すべて歩いて行ける距離にあります。
吉原は京の島原(京都市下京区)、
大坂の新町(大阪市西区)と並んで
三大遊廓と呼ばれていました。
京都島原遊郭跡地は行ったことがあります。
・・・ということで
2025年(令和7年)の大河ドラマ「べらぼう」
第20話「寝惚けて候」の紹介でした。
