1877年 3月20日――西南戦争最大の激戦地として知られる熊本・ 田原坂(たばるざか) の戦いが決着を迎えました。薩摩軍と明治政府軍が17日間にもわたって激しくぶつかったこの戦場は、戦史に残る熾烈な戦闘の舞台となり、両軍合わせて約14,000人もの若者が命を落とした場所でもあります。
この記事では、現地の風景写真、当時の新聞記事、戦闘の流れや激戦の様子を丁寧に紹介しながら、歴史の現場を読み解いていきます。戦跡巡りや歴史学習の参考にもなる内容です。

(出典:
https://dl.ndl.go.jp/pid/1920337/1/109)
3月20日、西南戦争最大の激戦地・田原坂の戦いが、
ついに決着しました。

https://dl.ndl.go.jp/pid/1301559/1/1
(西南戦争勃発)
西郷隆盛は維新の功労者ですが、明治維新後、征韓論に敗れ鹿児島へ下ります。このとき同じ薩摩藩出身の桐野利秋、篠原国幹、村田新八らも行動を共にします。
こうして明治政府の方針に不満を抱く者が終結し、鹿児島は、政府から独立したような存在となります。
そして、西郷ら反政府の官員、軍人は、私学校を創設します。

(出典:
https://dl.ndl.go.jp/pid/1920337/1/102)
このような薩摩の動きに対し明治政府は、私学校を内偵します。
また私学校の生徒は、西郷暗殺計画を知り、両者の対立は深まります。
そして1877年(明治10年)2月15日、1万3千の西郷軍は鹿児島を起ち、熊本鎮台のある熊本城へ向います。西南戦争の始まりです。
(田原坂)
熊本城攻撃をしていた薩摩軍は、迫り来る政府軍を迎え討つため、包囲の一部を熊本城の北にある田原坂方面へむかわせます。
下は、西南戦争が起きた年の田原坂の写真です。

田原坂は玉名の高瀬から熊本に通じ、大砲や荷馬車が通過できる唯一の道で、一の坂・二の坂・三の坂と三つに分かれる長さ1.5km、標高差80Mのゆるやかな坂です。
一の坂には駐車場があります。

現在の田原坂は地面は舗装されていますが、曲がりくねった道で防御に適した地形です。
薩摩軍はここに陣地を構えて、各地に塁を築き、濠を巡らして政府軍を待ちます。
(田原坂の戦い)
3月4日、政府軍の総攻撃が始まります。
田原坂は蛇行した山道で、下から攻め登ろうとする政府軍は前方の見通しが効かないために簡単に進むことができません。
当時の様子を書いた錦絵です。左が政府軍、右の木綿のかすりとわらじ姿が薩摩軍です。
(谷村計介戦死)
3月4日の戦いでは、政府軍の陸軍伍長の谷村計介が23才で戦死します。
谷村計介は、政府軍が守る熊本鎮台司令少将の谷千城の命を受けて密使となり、戦火ををくぐり玉名の高瀬にあった官軍本営との連絡を無事に果たし官軍の勝利に貢献します。しかし、そのわずか2日後の3月4日、田原坂で戦死しました。
田原坂には、谷村計介戦死の地の碑があります。

(抜刀隊)
3月7日、薩摩軍は刀で斬り込む抜刀隊を組織して攻撃し奪われた陣地を取り戻します。こうして一進一退の展開が続きます。
3月13日には、政府軍も警視庁抜刀隊を編成して対抗し次第に政府軍が優勢になっていきます。
下はその様子を描いた錦絵です。左が政府軍の警視抜刀隊、右の木綿のかすりとわらじ姿が薩摩軍です。

(弾痕の家)
田原坂では、政府軍、薩摩軍が泥沼の戦闘を繰り広げ、1日32万発もの弾雨が降り注ぎ、弾丸が空中で激突した(行合弾)ほどです。
西南戦争当時、田原坂の頂上にあった松下彦次郎家の土蔵(住所は熊本県植木町大字豊岡休居2244番地)は、政府軍と薩摩軍・両軍の銃弾で無数の疵を受け、このような 姿になってしまいました。

この土蔵は、今も「弾痕の家」として田原坂の頂上にある田原坂公園に保存されています。

(田原坂陥落)
政府軍と薩摩軍の戦いですが、長期戦になれば物流の差が出てきます。17日間続いた田原坂の戦いでは雨の日が多く、薩摩軍は、雨に濡れると使えない銃を装備していました。
さらに軍服、靴を備えた政府軍に対し、木綿のかすりとわらじ姿の薩摩軍は次第に消耗していきます。
3月20日、夜中から続いた大雨の後、政府軍は午前6時、総攻撃を開始します。わずか4時間で柿木台場を占領した政府軍は田原坂を防御する薩摩軍本隊の背後から攻撃を仕掛けます。こうして田原坂は政府軍の手に落ちることとなりました。

(出典:
https://dl.ndl.go.jp/pid/1920337/1/109)
田原坂の戦いは17日間続き、政府軍・薩摩軍双方で3000名近くが戦死しました。

https://dl.ndl.go.jp/pid/1307939/1/1
(現在の田原坂)
現在、田原坂の道沿いには、西南戦争戦没者慰霊の碑があります。
(田原坂公園)
現在、田原坂の頂上は公園になっています。
ここには、崇烈碑があります。これは明治政府が直接関与した唯一の西南戦争に関する記念碑です。
1880年(明治13年)に陸軍省工兵第6方面により建設されました。石碑の高さ3.9m,幅1.9m,厚さ0.4~0.6mです。碑文と篆額は征討総督の有栖川宮熾仁親王で、田原坂の激戦の様子などが政府軍の立場から刻まれています。


(忠霊碑)
同じく田原坂公園には、西南戦争80周年にあたる1957年(昭和32年)に建てられた慰霊碑があります。
この碑には両軍の戦没者合わせて約14,000人の名前が記してあります。また、この慰霊塔は眼下を走るJRの窓からも拝めるように高さが12.5mと高くなっています。

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(その後)
その後、薩摩軍の敗走は続き、半年後の9月24日、西郷以下の薩摩軍幹部が鹿児島・城山で自決します。
約7か月に及ぶ戦いは、熊本、大分、宮崎、鹿児島の九州4県にまたがり、薩摩軍3万人、政府軍6万人が動員され、約14,000人の若者が命を落としました。
<<田原坂・田原坂公園への行き方>>
車で行きましょう
住所:熊本県植木町豊岡
・・ということで3月20日は
西南戦争最大の激戦地・田原坂の戦いが決着した日です。
