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1868年(慶応4年)旧暦1月11日、神戸事件発生!

1868年(慶応4年)旧暦1月11日、
備前藩の兵が、隊列を横切った2人のフランス人を
「無礼なり!」と、制止しようとして負傷させます。
これがきっかけで神戸の街が外国勢力に占領されます。
神戸事件です。
徳川道
江戸時代末期に日本は長い鎖国から開国へとなりますが、価値観や文化・習慣が違う
外国の人が日本に来ることで様々なトラブルが起こることが想定されました。

特に「切り捨て御免」の武士と外国人との衝突が起きる可能性を配慮した幕府は、それを回避するために、武士が通るけど外国人が通らない道を作っていました。
当時、京都(東寺口)から淀川右岸を通り、大坂を経ず下関、さらに九州までへ至る重要な幹線道路として西国街道がありましたが、幕府は、ここで武士と外国人が衝突することを避けるために新しく道を作ります。
西国街道を外国人居留地を迂回して山中を通り、衝突がおきない場所に付替えた「徳川道」です。
西国街道を通らず・・・)
1867年(慶応3年)10月14日に大政奉還が出され、12月9日には王政復古の大令が、発せられました。しかし、国内はまだ混とんとしていて、翌年、正月3日には鳥羽伏見の戦いが起きます。
このとき備前藩は、朝廷からの命で1868年正月元旦から5日にわたり約2000の兵を出します。
4日には家老日置刀帯忠尚が率いる約500の一隊が岡山を出発しますが、一行は徳川道を通らずに西国街道を進みました。
三宮神社で・・)
11日午後1時頃、一行が神戸の三宮神社に差しかかったときに事件は起こりました。

このとき、フランス人水兵2人が、「供割」(ともわり)と呼ばれる「隊を横切るという、武士に対して非常に無礼な行為」を行います。

これを目にした備前藩の滝善三郎が槍で制止しますが、言葉が通じず、2人のフランス水兵は強引に隊列を横切ろうとします。
そこで滝が阻止し、水兵に軽傷を負わせてしまいます。

滝善三郎にとっては、「隊列を横切った無礼者!!」ということで日本の流儀に乗ったまったく正当な行為ですが、外国人はそのような武士の習慣を知らないので「おいおい何とひどいことをするんだ!」となります。
これが当時神戸港に碇泊していた米、英、仏、伊、和、普といった6か国の外国軍艦の陸戦隊も巻き込んだ戦いに発展し、一時は外国兵が神戸の町を占拠してしまいます。

事件が発生した神戸の三宮神社境内には砲台が残っています。

(和平交渉)
同15日に東久世通禧を勅使とする一行が、明治天皇の宣言書を捧げて6ケ国代表とで交渉を開始します。
そして、 「事件の責任者を各国士官が立ち会いのもと死刑に処すべし」との要求を受諾します。
これはよく考えると、向こうが死亡したわけでもないのに、なぜ死刑になるの??!と大いなる疑問を抱きます。
滝善三郎切腹
29日、滝善三郎が兵庫の永福寺切腹をし、これで事態は解決となりました。

下の写真は、太平洋戦争中に出版された「神戸史跡巡り」という本に記載されていたもので2,上が滝善三郎が切腹した永福寺本堂、下が永福寺です。

(出典:神戸史蹟めぐり(昭和17年出版):国立国会図書館デジタルアーカイブ

https://dl.ndl.go.jp/pid/1036646/1/39)

 

下は、滝善三郎恰幅の見取り図です。

(出典:神戸市史 第2輯 第3冊(昭和12年出版):国会図書館デジタルアーカイブ

https://dl.ndl.go.jp/pid/1117585/1/37)


下は滝善三郎が家族に書いた遺書です。

(出典:輝く日本精神 : 日本精神宣揚展覧会記念(昭和10年出版)国立国会図書館デジタルアーカイブhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1264585/1/69)

 

・・・ということで1月11日は
神戸事件が発生した日です。




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