1941年(昭和16年)12月8日真珠湾奇襲がおき
太平洋戦争が始まります。
このとき、真珠湾奇襲に参加した日本人パイロットが
ニイハウ島に不時着し、
後のアメリカの日系移民政策を決断する
ニイハウ事件が起きます。
(飛行不能の時はニイハウ島へ)
1941年(昭和16年)12月8日、真珠湾奇襲が行われます。
このとき、空母から出撃する戦闘機乗り達に、海軍首脳部は、飛行不能になった飛行機は、ニイハウ島に不時着し、ここで潜水艦による救助を待つようにと通達しました。
ニイハウ島は、面積は約179㎢で、ハワイにある7つの島のなかで2番目に小さいです。当時は、島は牛の放牧場で、3人の日本人と20人の現地人が住んでいて白人はいませんでした。

島は、西部が平坦で飛行機が着陸しやすく、また水深が深いために救出用の潜水艦が接近しやすい状況でした。
日本海軍は、ニイハウ島を真珠湾攻撃で損傷を受けた航空機の緊急着陸地、及びパイロットを潜水艦で救出する集合地点として決め、近海には伊号第74潜水艦が待機していました。
(西開地重徳一飛曹ニイハウ島に不時着)
真珠湾奇襲の日・現地時間の12月7日午前6時半、西開地重徳一飛曹(にしかいち しげのり 21)は零戦に乗り空母飛龍から第2次攻撃隊の戦闘機隊第2小隊2番機として発艦しますが対空砲火で被弾し、ニイハウ島を目指します。

やがて西開地が操縦する零戦は、ニイハウ島に胴体着陸しますが、この衝撃で失神します。
近くに住むカレオハノという住民が墜落した西開地を発見し、破損した零戦の機内にあった拳銃と、零戦に関する重要書類や飛行暗号表、地図などの書類を盗みます。
このとき、島民はまだ日米開戦を知りませんでした。
西開地の通訳として島に住む日系2世の原田義雄(38歳)が現れます。やがて西開地は、同じ日本人の血が流れているということからか、原田に真珠湾攻撃の事実を打ち明けます。そして盗まれた書類を返すようにカレオハノに要求しますが応じません。
(拘束)
島民たちはその夜、ラジオで日米開戦を知り、西開地がハワイ真珠湾を空襲した飛行機乗りだと気がつき、彼を捕らえます。
しかし原田は西開地を救出し、西開地の零戦の無線を使おうと試みます。それがうまくいかず西開地は、除法漏洩防止のため自分が乗ってきた機体に火を付けます。
御存知のように当時、日本海軍の零式戦闘機は、世界最高水準の戦闘機でした。
まだ米軍は、零戦の技術をすべてを把握している訳ではないため、米軍戦闘機は日本軍の零戦には太刀打ちできないことが多かったのです。
ですから、このまま零戦を放置しておくと、米軍に調査される恐れがあったため火をつけました。
下の写真は12月17日に米国陸軍派遣隊が撮影した焼却後の西開地機です。
12月13日朝、原田が西開地は島民を人質に取り、書類の返還を要求します。
しかし、島民と乱闘になり西開地は、石で頭を殴られ、ノドを切り裂かれて死亡。原田は散弾銃で自殺します。そして重要書類は米軍の手に渡ります。
(色々な説)
このニイハウ島での出来事は、本によっては盗まれたのは「零戦の事を示した重要書類」あるいは「単なる書類」、またストーリーも「山中で拳銃自殺をした」「民家に火をつけた」など色々な説があります。
ニイハウ事件は、本になっています。
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西開地重徳一飛曹が操縦した零戦二一型の模型は「零戦21型 飛龍戦闘機隊 西開地重徳一飛曹搭乗機 戦闘機 ミニチュア」として フィギアが販売されています。 |
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(事件の影響)
この事件は、アメリカに「米国に忠誠を誓っているようにみえる日系人たちが日本軍を援助する可能性がある。日系人はたとえ米国市民であって信用できす、日本側に寝返るかもしれない」との印象を与え、これが日系人収容所を設営するきっかけになったといわれています。
そして真珠湾奇襲の翌年の2月19日、米国は、西海岸に住む約12万人の日系人と日本人を、強制的に移住させる大統領行政命令第9066号を発令し、日系人が各地で収容されました。
