1945年の 沖縄戦 の末期、女学生で編成された ひめゆり学徒隊 は戦場の混乱の中で多くの命を失いました。
沖縄本島南部にある 荒崎海岸 は、ひめゆり学徒隊の多くが命を落とした場所の一つとして知られています。
本記事では、沖縄戦の悲劇の舞台となった荒崎海岸を実際に訪れ、ひめゆり学徒隊がたどった最後の足跡を紹介します。

6月21日、沖縄戦で海岸部に逃げていた、
ひめゆり部隊の一部が、
米軍の攻撃を受けて追い詰められ
手榴弾で集団自決をしました。
(荒崎海岸での惨劇)
沖縄南部の糸満市にある荒崎海岸。沖縄戦末期、この海岸一帯には、敗走し南へ南へと逃げた住民が避難していました。その中には、ひめゆり部隊(ひめゆり学徒隊)のメンバーもいました。
ひめゆり部隊の女学生たちは沖縄戦で、医療補助業務などに従事します。
各地でいくつかの壕に病院があり、ひめゆり部隊の女学生たちも、いくつかのグループに分かれて配置されます。
しかし次第に戦局が日本軍に不利になり、米軍により、それぞれの壕が攻撃を受け、
ひめゆり部隊の何人かは、飛び交う銃弾から逃げ沖縄本島南端にある荒崎海岸に、追い詰められます。

(6月21日米軍が市民を銃撃)
6月21日、岩場に隠れていた平良松四郎教諭が引率する、ひめゆり部隊の生徒達は突然アメリカ兵から自動小銃の攻撃をうけます。
米軍による市民への射撃!兵士でない、しかも隠れていた一般市民への射撃です!!
この攻撃で、もう後がないと感じた引率教員が手榴弾で自決し8名が命を落とします。
さらに米軍の機銃掃射で3名が死亡、3名が重傷を負います。
現在、この場所には「ひめゆり学徒散華の跡」の碑が設置されています。
ひめゆり学徒散華の跡碑の碑文には「岩陰に一筋の黒髪 乙女らの自決の地なり
波もとどろに」の詩と、この地で亡くなった学徒隊12名と教員2名の名前が刻まれています。

(ひめゆりの塔の近くの海岸)
ひめゆり学徒隊散華の碑がある沖縄本島南部の荒崎海岸は、ひめゆりの塔から車で10分近ほどの荒崎海岸にあります。
看板がありここからは歩いて碑までは5分ほどです。

(ゴツゴツした足場)
下の写真は、手りゅう弾で自決した荒崎海岸一帯の足場です。琉球石灰岩の尖った岩々が広がっている海岸です。ゴツゴツしていて、今現在スニーカーで歩いても足が痛くなります。
当時は、靴が今よりも質が悪く、しかも戦いが長引き食料も不十分で栄養状態も良くない、そんな状況でここを歩いたわけです。
実際に現地を訪れてみて、背後は海で隠れる場所もなく、足場は悪く、もうどうしようもなく絶望的な状況であっただろうと想像できます。

ここで、1945年(昭和20年)6月21日、追い込まれたひめゆり学徒隊が手榴弾で自決し命をなくしたのです。

ひめゆり部隊は、沖縄師範学校女子部と沖縄で1番優秀な女子の進学校だった第一高等女学校の両校から動員された学徒隊です。日本の未来に大きな貢献が期待されていた、この優秀な生徒たちが、民間人であるにもかかわらず戦闘でなくなりました。
結局、沖縄戦では、ひめゆり部隊の生徒211人と教師16人の計227人が尊い命を落としています。非常に残念です。

<<ひめゆり学徒散華の地への行き方>>
車で行きましょう
住所:沖縄県糸満市束里
ということで、6月21日は、
荒崎海岸に逃げ隠れていたひめゆり部隊の一部が
米軍の攻撃を受け集団自決した日です。
無念の死を遂げた方々の御冥福をお祈りします。
