平安時代の宮中を舞台にしたドラマ「光る君へ」。
第17話「うつろい」を見ていきましょう。
(生還)
藤原道長の看病をうけ、疫病で死の淵をさまよった、まひろは一命をとりとめます。
そして、体調が回復して起き上がれるようになりました。
まひろは、悲田院で見た道長は幻だったのではないかと思っていました。
しかし、乙丸から道長が夜通し看病してくれたことを知ります。
(救いの小屋)
道長は、疫病の民を救うために「救いの小屋」を建てようとします。
兄で関白の藤原道隆が「放っておけば疫病なんていずれ 収まる。作りたければ自分の財を使え!道兼とともにわたしを追い落とそうとしているのではないか?」と言いだし何も対策をしないために、私財を投げ出すことにします。
その道長に妻・倫子も「救い小屋のためわたしの財もお使いくださいませ」と協力をしてくれます。
ここで倫子は「悲田院に行った夜はどこにいらしたのですか?」と聞き、道長は「内裏で朝まで仕事をしていた」と応えます。
(父の想い)
一方、まひろの父・為時は、中納言と言う位にある道長と、まひろの関係を、まひろに尋ねますが、まひろは何もないと応えます。しかし 乳母・いとは2人が深い中であることを見抜いていました。
(糖尿病)
その頃、関白の藤原道隆は体調を崩し、衰えを見せ始めます。道隆の病は、糖尿病です。
度重なる美食と過度の飲酒が原因と言うことですが、この時代に糖尿病とは、どれだけ贅沢していたかがわかります。「大鏡」や「枕草子」によると大酒飲みだったそうです。
やがて道隆は、笛の演奏をしていた後に倒れました。「手がしびれる。目がかすむ。喉もかわく。これは誰ぞの呪詛ではないのか。道兼も詮子も道長も怪しい。」と言います。
しかし、安倍晴明からは「寿命が尽きようとしております」と言われます。それを聞いた道隆は「祈祷で寿命を延ばせ」と晴明に言いますが、晴明は何をしても助からないとわかっていたので、自分はやらず、弟子にやらせます。さらに「病いの者の穢をもらった。疲れた疲れた」とまで言います。
(帝の思い)
翌年の正月、病床の道隆は、悪い運気を断ち切るため新たな元号を「長徳」とするよう帝に勧めています。
このように流れを断ち切るという意味で、年号を変えることは昔は良くありました。
内裏では、実資らが「長徳」という年号は、疫病が長引くことにつながるので不吉だと言い、さらに「帝は関白・道隆の言うことを聞きすぎだ」と話します。その会話を一条天皇が壁の穴から見聞きしていました。
(娘の思い)
長徳元年2月、道隆の娘の中宮・定子は、兄・伊周を登華殿に呼び「父上の命あるうちに、一条天皇からの内覧の許しを受けるべきだと思うわ父上から帝にお願いして、私も強くお願いしておきますから。」といいます。内覧とは、関白に準ずる立場の職です。
(妹の思い)
一方、道長と道兼は、一条天皇の母・詮子に呼び出されます。
詮子は「兄上が亡き後、関白には道兼がつくべきだ。昔から、道兼のことが好きなわけではないけど、伊周になられるのは我慢ならない。今後は、道長も道兼を後押しするように。私は、伊周を嫌う公卿たちをまとめておきます。」と言います。まあ、この言い方もトゲがある言い方ですねえ。
関白道隆は、自分の死後、残された一族が繁栄するようにと考え、弟の「藤原道兼」を呼び出し、自分の家族を支えてくれと頼みます。
こうして朝廷内で、道隆の死後をにらんだ動きが本格化します。
(友情復活)
そんなある日、石山寺に旅行を行って以来、交流が途絶えていた、さわが、まひろの元にやってきます。
そして「ごめんなさい。もう一度、友として付き合ってほしい。」といいました。まひろは、さわに何度も文を出しましたが一度も返事がありませんでした。
さわは、疫病で兄弟を亡くした事がきっかけで、人の命が尊いものであることを感じ、友を大切にしたいと考えたのです。
こうして仲違いしていた「さわ」との友情も復活します。
(御子を産め!)
病気でふらふらの関白・藤原道隆は、息子の伊周に内覧にしてほしいと一条天皇に懇願します。しかし、一条天皇が保留したため、道隆はショックをうけます。
そして、今度は、道隆は、娘で中宮の定子に「皇子さえいれば、帝は味方になる。皇子がないがゆえに、帝の心がゆれるのだ。御子をうむのだ」と迫ります。
これもひどい命令です。
ついに、一条天皇は伊周を内覧にしますが、それは関白・道隆が病気の間という条件がついていました。
(道隆死す)
関白・藤原道隆は、息子の伊周に関白の位を譲る事を何度も天皇にお願いしたが許されません。長徳 元年4月3日には、関白を辞し、伊周の関白就任を再度奏上しますが、それも叶いません。
そして同6日出家し、4月10日、43歳で死亡します。
藤原道隆を看取った、妻・高階貴子(たかしなのたかこ)は、「高階成忠」(たかしなのなりただ)という学者の娘です。
身分は高くありませんでしたが、教養があり平安時代の女流歌人で、女房三十六歌仙に数えられています。
百人一首には「わすれじの 行く末までは かたければ 今日をかぎりの 命ともがな」(新古今和歌集)の歌が収められています。
・・・さあ、どうなる。次回に続く