1358年の8月22日、

義満が暮らした金閣寺は鮮やかでかつ厳かで足利幕府の最盛期にふさわしいです。
足利義満は、初代室町将軍の足利尊氏の孫で、二代将軍足利義詮の次男です。
この足利義満は、金閣寺を建てた人、日明貿易で財をなした人、南北朝の統一を果たした人、そして花の御所と呼ばれる大邸宅を作り室町幕府が一番力があった時代の将軍として歴史の授業で習います。

(南北朝を統一した時の将軍)
この時代は、後醍醐天皇と足利尊氏のそれぞれの思惑で2つの朝廷ができてしまい、
後醍醐天皇の流れをくむ吉野の南朝と足利幕府が擁立した京都の北朝に分かれた
南北朝時代でした。1336年から1392年の57年間続きました。
実は南北朝は、尊氏の時代に一度は統一されましたが、(正平一統 しょうへい いっとう)すぐに破局になります。
しかし、1392年にはついに南北朝が統一されました。この時の将軍が足利義満です。
(天皇家を乗っとろうとした将軍)
色々な文献などを読むと、足利義満は天皇家を乗っとろうとした将軍ではないかと
思われます。
それでは、そのシナリオを見ていきましょう。
義満は室町将軍、そして朝廷では太政大臣となり地位を極めていきます。
また,明との貿易では勘合札に「日本国王」と記述していました。
これは当時の大帝国の明から「日本国王」のお墨付きをもらったことになります。
次に彼は、次男の義嗣を天皇の養子にさせ皇位に就けようと計画します。
そして、自分は天皇の父親=上皇として君臨しようと計画していたとされます。
つまり義満は自らは太上天皇となって、天皇家を足利家でのっとることを企んだとされます。
もし、コレが実現すれば、長男の義持は4代将軍、次男の義嗣は101代の天皇、
そして義満自身は将軍と天皇双方の父親でかつ上皇という史上最高の権力者に君臨することになります。
血筋を考えると足利義満は源氏の流れを汲み父方は清和天皇。母方は84代天皇の順徳天皇です。義満はこの順徳天皇の5世の孫です。そして当時の御円融天皇はイトコ。
これまでも、天皇の遠い血筋の人を天皇に即位させたことがあるので、清和源氏の血を引く足利義満の息子が天皇になるのも、非常におかしいというわけではありません。
また、この頃、宮中では、王朝は100代で新しい王朝に変わるという説が流れていました。
丁度、後小松天皇で100代目。義満は、この説を利用し、皇位交代を正当化させようとたくらんだのかもしれません。
(義満の計画達成寸前に謎の突然死)
義満は、後小松天皇の時に、15歳の息子の義嗣に対し宮中で「立太子」の礼を行わせ
元服させます。
これで義嗣は義嗣親王となり、皇位が継承出来るようになりました。
あとは、後小松天皇が皇位を義嗣に譲れば、足利天皇の誕生で、乗っ取りの準備が整いました。
しかし、義満は義嗣の立太子から10日後、発病し突然死します。
この突然死は朝廷の反対派による毒殺との見方が強いです。
今まで天皇を名乗る人や、権力者として天皇に取って代わろうとした人、
新しく自分が天皇だと称した人はいました。
また、自分の娘を天皇の后にすることで、自分の孫を天皇にする人は、
しかし、「男系で天皇家を血筋ごと乗っとろうと動いた人」は、
足利義満だけしか思い浮かびません。
足利義満。
その義満が生まれたのは8月22日です。
義満の天皇乗っ取り計画、調べてみると面白いです。
本当に将軍家と天皇家の合体を考えた人がいたんですねええ。
