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作者の復活

 コンピュータの登場によって、作者の役割が書物-外へ移行することについての覚書。あるいは予感。

インターネットと構造主義

 インターネットと構造主義の有縁性については幾度となく指摘されてきました*1。ヴァネヴァー・ブッシュの連想システム(メメックス)から始まり、テッド・ネルソンのハイパーテクスト、そしてティム・バーナーズ=リーのワールド・ワイド・ウェブ(www)。加速度的に増える情報量に対してラリー・ペイジに代表される「検索」の思想が拡がったのは必然と言えるでしょう*2
 もう一方には構造主義者(あるいはポスト構造主義者)と呼ばれるデリダフーコー、バルト、バフチンクリステヴァらの言説が連なります。「網目(ネットワーク)」「蜘蛛の巣(ウェブ)」「結節点(ノード)」「連鎖(リンク)」「痕跡(トレース)」「間テクスト性」「相互関連 」「母型(マトリックス)」といった、インターネットを象徴させる述語が多く生み出されました。

 今現在、インターネットを通じた情報技術が果てしなく成長する一方で、それに比肩しうる哲学的な言説は、どこにもありません。むしろ停滞しているとさえ言われています。「新たな書物」と呼ばれうる脱中心的な文学、ハイパーテクスト文学、すなわちその実装としてのインターネットが文学の主戦場になると思われましたが、半世紀以上経た今も、その兆しはありません。情報の記憶や伝達、ゆるやかな繋がりの手段としてインターネットは大きく成功しましたが、電子出版システムとしての駆流を起こすことは未だできていないのです*3

 平坦な文章と、凸凹な文章

 インターネット上のテキストは水平に並べられ、途切れやすいリンクで繋がっています。このため、発せられた言説が分かりやすい「表面」だけに切り取られていることがしばしばあります。これは書き手が意図的に行うこともあれば、読み手の不注意に過ぎないこともあります*4*5

 構造主義によって半ば逆説的な形で明らかにされたこと、それは、書物とは重層的に構造化されたものだということです。書物には平板な浅いリンクだけでなく、深いリンクが張り巡らされている。深いリンクを通じてテクストの「窓を覗く」、あるいは、「折り目を開く」ようにして、テクストの向こう側にある別のテクストに触れることができるというのです。書物は紙という一見平坦なもので構成されていますが、文献としての重層性を長い年月をかけて獲得してきました。例えばタイトルと著者名というパラテクストは最初期に現れた重層性です(それ以前、すなわち写本時代における書物の眼目は書き写しですから、それらは余計なものでした)。タイトルは「〜について」という書物の要約を表すようになり、著者名はテクストに権威を与えるようになります。更に修辞学的な配置である目次や章節が現れ、第二次の要約としての序言、議論の横道を案内する注釈と書誌(関連文書、先行研究)、またギョームによって発明された引用符号、学術的な装いをもたらす索引。これらは書物を孤立したオブジェクトとして扱うのではなく、文学全体における地理的マッピングをするために組み込んだ構造と言えます。

 テッド・ネルソンはこれらをリテラリー=文献、文学と呼び、新しい書物の「本当の」あるべき姿としました。現在のインターネットには、このような構造は十分に再現されていません。 テッド・ネルソンの構想した人文知としての新しい書物「ザナドゥ」は、残念ながら日の目を見ることはありませんでした。後世の人達はきっと「なぜ初めからザナドゥのようなインターネットを作らなかったのか」と非難するでしょう*6

  そもそもインターネットの起源は協調システムです。この点については一定程度成功しました。共有資産としての知の交流は活発化し、OSSやフリーライセンスという言葉も世の中に定着しつつあります。その一方でコピーライト、著作権の思想は希薄になってしまいました。極端に推し進めたコピーレフトの思想さえあります。これは決して手放しで称賛できる事態ではありません。著者=権威を維持することができないということは、著者としての責任を放棄することと表裏一体です。「それでもやっぱり…」と、小さな著者達は実名やハンドルネームを付加することによって辛うじて権威を維持しています。

 テッド・ネルソンはハイパーテキストを真に文学的な問題として捉えました。これはインターネットの起源には無かった思想であることは強調してもよいでしょう。彼が理想とするのは、ネットワークを介した、コンピュータによる普遍的な電子出版システムです。ここではユーザレベルで表面だけを見ることもできますし、深いリンクを伴った重層構造を見ることもできます。この仮想と実体を分離したFEBE構成*7は「ドキュバース(docuverse)」と言い表されます。このテキストの断片(レクシ*8)の集合は、ブッシュならトレール(経路)、デリダなら痕跡、ドゥルーズならアーカイブ(書庫)、コンパニョンなら間紙と言い表していたものでしょうか*9

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The Xanadu Document Model

http://xanadu.com/xuTheModel/

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TRANS COPYRIGHT

http://xanadu.com/tco/index.html

 私はドキュバースにおける、新たな著述のスタイルを次のように分類します。explicit author (文献を編集・整理し、引用する者)implicit author(書物を収集・整理し、関係を与える者)。前者のテキストには大量の引用窓があり、それを覗いて、更に深く潜ることができます。後者のテキストには大量の付箋や余白への書き込みがあり、幾重にも重なった厚みの上に、更に厚く書き加えることができます。新たな書物の表面は、指先の感覚では捉えられないほど微細な凸凹で埋め尽くされています。

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lexias of docuverse

 文学とは個々の独立したテキストではなく、複数のテキストとの見えない相互連関の網目のなかで、引用や参照、テキストの配置を繰り返す作業、つまり文献と文庫の流動的な空間の総体です。タブララサではなく、コラージュ(アッサンブラージュ)。これはパランプセストという言葉で、既に何度も囁かれてきたことです。

 こう想像できます。広大な一枚の紙を人類で共有し、局地的な規範の中で上手く文書をやり取りしているのが、インターネットという世界です。全体を見渡すと何の統一性もない表面が広がっています。その一方で、広大な知の関係性の集積を二、三センチメートル程度に畳むことができる皺くちゃな世界、それがドキュバースです*10

新たな書物へ向けて

 私達にはまだまだ想像力が必要です。

  • 大量のリンクによって繋がるレクシを構成、貯蔵する空間(ドキュバース)
  • ドキュバースによって保証される新たな著作権の仕組み
  • ドキュバースのデザイン、あるいは編集することによって書物を生成する電子的な出版システム、あるいはそれを管理する電子的な図書館*11

新たな作者の誕生

 15世紀のグーテンベルク革命は、短期間で急激に変化をもたらしたわけではありません。印刷技術としての書物が定着するには100年以上要したとさえ言われます。後から振り返ることで15世紀に印刷革命が起きたと判断しているのです。であるならば、20世紀のコンピュータ革命、インターネット革命は過去の出来事ではなく、今まさに起こっていると考えるべきでしょう。
 書物における〈作者の死〉は必然的な死でした。書物によって知が飽和したことによる必然的な死、つまり寿命です。グーテンベルク的な世界の権威(著者)は、コンピュータの登場によって「新たな書物」に移行するでしょう。ここで作者は幽霊として復活します*12

*1:ジョージ・P. ランドウ『ハイパーテクスト―活字とコンピュータが出会うとき』ジェイ・デイヴィッド ボルター『ライティング スペース―電子テキスト時代のエクリチュール

*2:これは単純化した上澄みとしての歴史です。ARPANETに象徴されるように、研究予算や設備の多くは国家戦略から生まれたものです。ここには当然政治経済を巻き込んだ錯綜とした歴史があります。

*3:むしろ悪いことに「ポストトゥルース」という言葉で象徴されるように、インターネットは嘘を流布し、真実を散逸させる、悪しきメディアだという論調さえあります。この失敗は利用者側に帰するべきではないでしょう。「リテラシーが低い人たちのせいで…」「倫理観の問題であり…」

*4:他者を矮小化する仕組みは、グローバリズムの世界における不幸の種とも言えます。ある言説が真実か否かを判断することはインターネットでは難しい問題です。

*5:URLの階層構造があるじゃないか?利用者の一体何割がそんなことを気にするでしょう。書み手と読み手のリテラシーに強く依存した言説では、普遍的な価値を作ることができません。

*6:

 たいていのハイパーテキスト・プロジェクトが、「必要なのは~だけ」という方法で始められた。このような方法においては、前で述べたような問題はそれなりの理由を付けて無視されることが多い。〈実行するのが難しい〉からだ。しかし、プロジェクトの後半で開発者はこの種の問題に対処する機能を〈付け加え〉始めた。残念なことに、こうしたことを後で付け加えることと当初から設計に組み入れておくのとでは格段の差ができてしまう。そのため、今あるハイパーテキストに何かを組み入れても、多くの問題を解決することは難しい。

 「ザナドゥみたいな複雑なものは必要ない」と言う人もいる。これはふたつのレベルで誤りだ。まず、ザナドゥ・システムはユーザーレベルでいかようにも単純にできる。次に、ネットワークやリンクの種類や履歴の追跡、枠付けなどの特徴を〈付け加える〉ことが泥沼のような複雑さを招くということだ。結局本当に必要なのは、こうした特徴を最初から組み入れて設計したシステムなのだ。(テッド・ネルソン『リテラリーマシン―ハイパーテキスト原論』)

*7:FEBE…フロントエンドバックエンド。これは一般的な用語ではなく、ザナドゥ固有の表現として理解すべきでしょう。

*8:

われわれは、読書によっては文章の語り口や物語の流暢な話し振りや流れるような言語活動の自然さによって眼にみえないように熔接された滑らかな表面しか捉えられない意味作用significationの塊を、小地震のようなやり方で切り離し、テキストにひびを入れるだろう。原テキストの記号表現は切り分けられ、隣り合った短い断片の連続となるだろう。それを本書では、レクシlexieと呼ぶことにしよう。なぜなら、それは読書の単位だからである。

*9:

 伯父のこの最新式のアメリカ製の書き物机は、なにか新しい物の象徴としてそこにある。その新しさとは、さまざまに考えることができようが、まず見落とすことができないのは、そこに体現されている機能的に完ぺきな分類方式である。機械仕掛けによって無数の変容をとげてゆくのは、すべて引き出しなのである。これら引き出しは、どんな書類でも、処理できる無限の収納スペースを実現する。しかも、そこに収納されるのはもはや、統一性を保持した書物という単位ではなく、書物の断片としての書類の束である。ベンヤミンの『一方通交路』で、昨今の学者の研究方法を観相学的に判読してみせる。ある学者が一冊の本を書こうとする場合、その書物の内容にかんするポイントは、その著者のカード・ボックスにすべておさまっている。それをもとに、彼は一冊の本を書き上げる。別の研究者は、その書物を読者として読み、研究したうえで、そのポイントをまた自分のカード式索引ボックスに収納する。書物は、もはや今日、ふたつのカード式索引システムのあいだをとりもつ、一介の「周旋屋」にすぎなくなってしまった。ベンヤミンのひそみにならえば、カールの伯父の機械仕掛けの書き物机において、最新型の分類システムに分類され、収納されるのが書物でないのは、けっして偶然などではない。ここで、書類とカードは、書物という統一体の断片として等価である。意味するものの統一体として書物は、意味されるものの超越的先行を前提にしてきたが、その統一性が断片化しているのである。最新の分類システムは、本の統一性という理念を分解してしまうのだ。

原克『書物の図像学』p.180

*10:

アレフの直径はおそらく二、三センチメートルにすぎなかったが、そこに全宇宙が、縮小されることもなく、そっくりそのまま包含されていた。個々の事物(たとえば鏡の表面)はそれ自体無限であった、というのは、わたしはそれを宇宙のあらゆる地点からはっきり見ていたからである。(・・・)あらゆる角度からアレフを見、アレフのなかに地球を、そして地球のなかにアレフを、さらにまたアレフのなかに地球を見た。わたし自身の顔と五臓六腑を見た……要するにわたしは、あなたの顔を見たのだ。(ホルヘ・ルイス・ボルヘスアレフ」『ボルヘスとわたし 自撰短篇集』)

*11:これらは未だ存在しない職業です。例えテキストが電子化されて一元管理されたとしても、人文的な知を結集させた重層的な書物を作ることは容易ではありません。思慮深い司書や、興味の尽きない著者、厳密な編集者は極めて数学的な手段でドキュバースの空間を探索することになります。

*12:余談ですが、旧来の書物やインターネットで幽霊を見ることは、鋭いセンスが求められます。言い換えればドキュバースでは誰もが幽霊を見たり、呼び出したりすることができるようになります。よく見れば幽霊見たり枯尾花




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