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革命を正当化する理論と、人間の罪悪感

みなさん天機です٩(ˊᗜˋ*)و

 

 

今回は、革命を正当化する理論と、人間の罪悪感、

というテーマで書いてみたいと思います

(この記事の字数 約2400字)

 

 

西洋の歴史においては、

これまでに2つの大きな変革がありました。

 

 

1つは16世紀に発生した宗教改革で、

もう1つは18世紀に発生した近代市民革命なんですね。

 

 

宗教改革の結果、人々は

従来のカトリックの教えを絶対視することがなくなり、

近代市民革命の結果、

絶対王政というものが倒れて

市民社会というものが誕生することになったんです。

 

 

このような革命的な変革が成功した背景には

いろんな事情があると思うんですが、

自分は、

罪悪感を克服できた

ということも、1つ大きな要因として

あるんじゃないかな、という気がするんですよ。

 

 

それまでのカトリック的な教義が支配していた世界、

国王が支配していた世界というのは、

いまでこそ打倒されていますから

それだけが絶対的なものじゃないんだと

自然に考えることができるでしょうが、

当時の人にとっては

それはまぎれもなく「世界秩序」そのものであって、

それに挑戦する自分たちというのは

本当に正しいことをしているんだろうか、

じつは自分たちは神や秩序にそむくような

間違ったことをしているんじゃないだろうか、といったような

猜疑心とか罪悪感にとらわれ、悩まされる

こともあったんじゃないかと思うんですね。

 

 

とくに西洋ではキリスト教が社会に深く根をおろす

伝統がありましたから、

宗教改革のときとかに、カトリックの教えと訣別しよう

なんてするときには、

大きな逡巡があったと思うんですよ。

 

 

このような猜疑心とか罪悪感から

ひとびとの意識を解放するうえで大きな役割を果たしたのが、

じつは、精緻な理論の構築だったんです。

 

 

宗教改革のときにも、近代市民革命のときにも

リーダーとか思想家とかは、

そこまで細かい理論を立てなくてもいいんじゃないの!?

と思うくらいの細かい理論を立てて、

革命的な変革を擁護していくんですね。

 

 

それらの見解とか著作については、

皆さんももしかしたら

中学とか高校で世界の歴史を学ぶときに

目にしたことがあるかもしれません。

 

 

たとえば、キリスト教の教典である聖書には、

「金持ちが天国に行くのは、ラクダが針の穴を通るより難しい」

なんていうふうに書かれてあったりするんですよ。

 

 

キリスト教においては

蓄財、お金儲けというのは悪だと考えられていたんですね。

 

 

それを宗教改革のときにスイスのカルヴァンという人が

勤労を奨励し、蓄財を容認する説を立てたことで、

頑張って働いてお金持ちになることはいいことなんだ、と

人々の意識がかわって自信を持つようになり、

その結果、西洋において近代資本主義が発展していくことに

つながっていくわけなんです。

 

 

同じく宗教改革の時期に

ドイツのルターという人は、「95か条の論題」という

論文を書いて、

救われるかどうかというのは免罪符を買うかどうかに

かかっているのではなく、

聖書の教えを大切にすることが重要なんだ、

という見解を唱えて人々を鼓舞するんですね。

 

 

 

 

フランス革命のような近代市民革命が起こったときにも、

ロック、ルソー、モンテスキューといった人々が

「市民政府二論」「社会契約論」「法の精神」といった

本を書いて、

そのなかで近代民主主義を擁護する理論を精緻に展開したために、

人々は励まされて革命に向かって進んでいくことができた

という側面があったと思うんですよ。

 

 

つまり、

自分たちは悪くない、悪くないんだ!と

無理やり思いこもうとしてもなかなかうまくいかず、

本当に罪悪感から解放されるためには

自分が心の深い部分から納得できるくらいの

緻密な論理

が必要になる、ということだと思うんですね٩(ˊᗜˋ*)و

 

 

じつはこのことは、

現代に生きるわたしたちにとっても

示唆的なことなんじゃないか、

学べることがあるんじゃないか、とも思うんですよ。

 

 

たとえば、

よくない宗教団体などから抜けようとするとき、

会社をやめようとするとき、

家族との関係を断とうとするとき、といったような、

自分のなかに1つの「革命」を起こして

あらたな一歩を人が踏み出そうとするときとかに、

「あなたのためを思ってやってきたのに。。。」とか

「なんて冷たい奴なんだ」とかいったことを言われる結果、

自分のなかに罪悪感のようなものを植え付けられて

逡巡してしまう、といったようなことも

あるかと思うんですね。

 

 

そんなときに、

「他人は他人、自分は自分。他人の意見なんて気にしないように

 しよう」なんていうアドバイスもあるかと思うんですが、

人間というのはそれほど強くないものですから、

やっぱり心のどこかに他人の発言がひっかかって

罪悪感から脱しきれないこともあるかと思うんですよ。

 

 

そういうときには、

かつて宗教改革のときにカルヴァンとかルターがやったように、

近代市民革命のときにロックとかルソーとか

モンテスキューがやったように、

自分で自分のために精緻な理論武装をしてみるというのも

1つの方法になるんじゃないだろうか、

なんて思うんですね。

 

 

緻密な論理をつくっていくときには、

「広さ」よりも「深さ」のほうが重要になる気がします。

 

 

だから、罪悪感を払拭したいと思うときは、

自分の抱えている問題について

簡単な本を幅広く読んでみる、というよりかは、

たとえばアナログのノートとか、

Googleドキュメントとか、Wordとかを利用して

自分の考えをどんどん掘り下げてみると

いいんじゃないかな、と思うんですね。

 

 

世の中の人100人に

「それはやっぱりあなたが間違っているよ?」

なんて言われて罪悪感を感じてしまうときに、

それでも自分だけは自分の味方をして

自分自身が納得できるような無理のない理論をつくりあげる

ということが大切になろうかと思います。

 

 

今回は、そんなお話でした。

 

 

以上、天機でした( ´ ▽ ` )ノ




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