
すでに何度かお話ししてきたように、憲法は何のためにあるかと言うと、国民の基本的人権を保障することが目的です。そのために、人権規定があるばかりでなく、立法・行政・司法・地方自治体などの統治機構も、極力、国民の人権を制約しないように規定されています。
たとえば、法律は国民の権利を制限し、義務を課することがある強力な規範ですから、選挙で選ばれ国民と同質のはずの国民代表=国会だけが立法できると規定されています。また、行政の担い手の内閣はそんな民主的機関である国会の信任がなければ総辞職しなければいけませんし、逆に少数者の人権をも守るべき「人権擁護最後の砦」とされる裁判所司法権の独立と言って、政治権力からの中立性を担保する様々な制度で守られています。
そして、日本国憲法には最高法規という章があって、その98条で、憲法は日本の最高法規であり、憲法違反の法律以下の規範や行為を国家が行ってもすべて無効だと規定しています。さらに、それを担保するために、81条で裁判所には違憲立法・行政審査権が与えられているのです。
ところが、この最高法規の章には、この98条の前に97条があります。私事ですが、実は私が一番好きな条文がこの97条なんです。
第十章 最高法規
第九十七条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
なぜ、日本国憲法は最高法規の章の最初にに、わざわざこの条文を持ってきたのでしょうか。それは、日本国憲法が単に憲法を制定した当時の日本だけの産物ではないからです。
何千年、何万年と言う人類の歴史の中で、誰もが平等の価値を持つことが常識となったのはごく最近のことです。つい数百年前までは、「上」には絶対的権力を持った王様がいたり、貴族がいたりして、逆に「下」の庶民は王侯貴族の家来とされ、あるいは所有物である奴隷とさえされていました。
そうしたなかで18世紀から19世にかけて、産業革命を経て身分の低いものも力を持つようになり、近代市民革命が起こり、やっと、「人は誰もが生まれや育ちと無関係に、ただ人であるがゆえに最高の価値を持つ存在だ」、という人権思想が普及したのですよね。
でも、それはその考え方が正しいから、人道的だから自然と普及したのではなくて、まさに何千年の歴史の中で無数の血を流して獲得した人類の共有の財産なんです。人間社会がこの個人の尊厳の考え方に至るには本当に時間がかかりました。今でも、理念としての人権思想は常識となっていても、現実にはまだまだなところがいっぱいありますよね。
だから、日本国憲法は、基本的人権は「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」であると確認し、「過去幾多の試練に耐え」てきたという歴史を我々に思い起こさせました。そして、この人類の宝ともいうべき基本的人権は、今現在の我々だけでなく、我々の子・孫のための「侵すことのできない永久の権利」で、それは、過去、犠牲を払ってきて下さってきた先人たちによって「信託」=信じて託されたものなのだと、厳かに宣言しているのです。
そういう、人々が血と汗と涙であがなった、かけがえのない基本的人権を保障するものだから、憲法は最高法規なのだ、というのが、最高法規の章がこの人権尊重の歴史を説いた97条から始まる意味なのです。

(戦前の日本を取り戻そうっていう話だから、時代錯誤も甚だしい)
ところが、今、この日本で、人類の多年にわたる努力の成果が踏み躙られようとしています。
なんと、自民党改憲案では、この97条が全部削除されているのです。
国家権力を制限してその濫用を防ぎ、国民の人権を守るのが憲法の役目であるという近代立憲主義を無視して、国民に憲法遵守義務を課すという、本末転倒で、世界の恥さらしの自民党改憲案のトンデモぶりを言いだしたらきりがありません。
そして、安倍自民党と言う存在が、人類の歴史と国民の基本的人権をいかに理解せず、軽んじているかは、この97条の削除の一事をもっても明白だと思います。
そんなに、人類の多年にわたる自由獲得の成果が邪魔なのか!
自民党のトンデモ改憲原案はもはや「憲法」とは言えない この国にはまともな政党はないのか
総選挙の争点6 驚き・桃の木・片山さつきの憲法解説 やはり安倍自民党は徴兵制を目論んでいる
これ以外にもてんこ盛りの自民党改憲案の人権規定の問題点は、早稲田大学の行動する憲法学者水島朝穂先生が、詳しく批判してくださっていますので、詳しくはそちらをご覧いただくとして、自民党案の中でも飛び切り危険だということで衆目の一致をみているのが、基本的人権の制約根拠が「公共の福祉」から「公益及び公の秩序」になってしまっていることです。日常用語としては似たようなものかと思われると思いますが、これこそ似て非なるものの最たる例です。
たとえば、私が、現行憲法で97条の次に好きな条文は12条なんですが、この条文は
第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
となっています。
巷間、日本国憲法や戦後民主主義は権利ばかり主張しているという人がいるのですが、この条文の公判を読めば、それが全くの誤解であることがわかりますね。現行憲法は自由と権利は不断の=絶え間ない努力をしないと保持できないことと同時に、権利を濫りに用いて、他人の権利を侵害してはならないことを、人権規定の最初の条文である12条にちゃんと規定しているのです。
では、国民が自由及び権利を公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う、とはどういうことか。
この「公共の福祉」というのは、公のために個人は我慢しろ、ということではありません。公共の福祉は人々のそれぞれの人権同士の「調整原理」と解釈されています。つまり、基本的人権というのはもともと他人の人権を侵害しない中身になっているという意味なんです。これを、憲法学では人権の「内在的制約」と言います。もともと、人権の中にある制約と言うことですね。
当然のことながら、国の基本法である憲法は、人が社会を作って他人と共存しなければ生きていけないことを前提として規定されています。だから、どの人も他の人とともに生きているのですから、ある人の人権というものは他の人の人権と両立する内容を持って存在し、その限りで保障されていると考えているのです。

俵 義文 (著), 魚住 昭 (著), 横田 一 (著), 佐高 信 (著), 『週刊金曜日』取材班 (著) 実力派の著者たちがコンパクトにわかりやすくまとめています。
たとえば、有名な「表現の自由」は最も重要な基本的人権の一つですが、他人の名誉権やプライバシー権は侵害しないという内在的制約があるのです。そういう形を持った人権なのです。他人の人権を侵害したらそれは権利の濫用です。
これが、現行憲法12条の言う「常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う」という意味です。もちろん、実際には、どういう人に対するどの程度の表現なら許されるのかは非常に難しい問題ですから、学説や判例が何十年も積み重ねられ、ある人権の行使がどういう場合に他人の人権を侵害し、「公共の福祉」に反するかどうかの基準が作られてきています。
ところが、この12条を自民党案は変えてしまいました。自民党改憲案では
第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。
となってしまっているのです。また、ここでも自由や権利について責任と義務が強調されているのも、立憲主義の理解不足が表れていますが、最も問題なのは、これでは、ある人の権利行使が他の国民の人権を侵害するかどうかで制約されるのではなく、「公益」だの「公の秩序」だの、あまりに抽象的で、国家機関側が何とでも理屈をつけて人権を制限してしまえることなのです。
ちなみに、戦前の大日本帝国憲法は、基本的人権規定の章の名前が「臣民の権利義務」(天皇の家来の権利義務)となっているのも今の感覚からすると凄いのですが、人権規定にことごとく、「法律ニ定メタル場合ヲ除ク外」という例外規定がくっついてしまっています。
これを憲法学では「法律の留保」というのですが、これでは、せっかく憲法で人権を規定していても、帝国議会がいくらでも人権を制限できてしまいますよね。国民の思想良心の自由や表現の自由などを侵害しまくった、悪名高い治安維持法などがその典型です。
だからこそ、日本国憲法は、戦前の国民が人権を侵害され、言いたいことも言えないから戦争にも反対できなかった反省に基づいて、詳細な人権規定を置いたです。ところが、自民党の改憲案では、公益に反するとか、公の秩序に反するとかいって、国家機関が法律や政令で人権を侵害し放題にできるのです。
これはもう、国民の基本的人権が臣民の権利でしかなかった大日本帝国憲法への先祖返りとさえ言えます。
総選挙の争点5 安倍自民党のトンデモ改憲案は大日本帝国憲法より醜い封建主義憲法です

先ほども例に出した、国民が自由に物が言えるという最も大事な基本的人権である表現の自由は、日本国憲法では第21条で
1項 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する
2項 検閲はこれをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
と規定されています。ところが、上記の画像のように、自民党改憲案はなんと
第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。
2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。
3 検閲は、してはならない。通信の秘密は、侵してはならない。
と、規定し、せっかくの人権規定の1項を2項でひっくり返してしまっているのです。この2項の
前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない
などと言う、今までになかったよけいな規定を、なぜわざわざ自民党は入れるのだと思われますか?たとえば脅迫とか強要とか、犯罪の教唆や扇動とか、違法な言動をした場合には、今だって、刑法などで十分取り締まれているではないですか。暴力団だって暴対法などさまざまな法制で過剰なほど規制しています。
つまり、この規定は、国家にとってすごく便利なんですよ。国家機関=権力者が「公益及び公の秩序を害する」と判断したら、表現が許されなくなってしまうことになってしまいます。表現した後、国家からなにが公益だの公の秩序を害するといわれるかわかったものではありませんから、国民はびびってしまい、言ってもいいことも言えなくなってしまうでしょう。これを、憲法学では「表現の自由の萎縮的効果」、といいます。人権の中でも、表現の自由は特に萎縮しやすい性質があるんですね。
もし、自民党の改憲案が通れば、国民側には必ず過剰な自粛が起こります。憲法にこんなよけいな規定を入れておくだけで、別に国家権力は何もしなくても、国民が黙ってくれるのです。規制立法なんて作らなくても、人々がお互いに縮こまって言いたいことを言えず、聞きたいことも聞けなくなります。
これはもう民主主義の危機。はっきり言ってファシズムの開始です。

[単行本]宮崎 学 (著), 近代の深層研究会 (著) 安倍氏の深層心理と原風景がわかる非常に鋭い分析です。
安倍晋三総裁は、実父の政治家安倍晋太郎の息子ではなく、A級戦犯だった岸信介の孫だとわざわざ自称する人です。安倍自民党が好き勝手をして、こんな戦前回帰・時代錯誤の改憲をする世の中で、自分の子供を育てるなんて誰が望むでしょうか。
国家は国民の自由と権利を保障し、さらに拡充して幸せにするためにあるのです。憲法はそのために制定するものです。一部の為政者が好き放題するために、人類の多年にわたる努力の成果を放棄するような改憲政党が、今の現代社会で力を持つべきではないのです。
安倍晋三自民党新総裁誕生 暗黒の騎士(岸)再び

ほんまに子供たちがかわいそう。
よろしかったら上下ともクリックしてくださると大変うれしいです。
「選挙の争点は憲法改正だ」福島・社民党首
■福島瑞穂・社民党党首
今度の選挙の争点は憲法改正だ。自民党が、国防軍の設置と集団的自衛権の行使をうたっている。これは、米国とともに世界で戦争をできる、戦争することが違憲ではない、ということになる。戦後の67年間を根本的に変えることだから、憲法9条を変えさせないためにがんばる。(NHKの番組で)
【社説】
憲法で禁じた集団的自衛権の行使を法律によって可能にする、こんなからくりが国会で進みつつあります。実現すれば平和憲法はなし崩しになります。
十六日投開票の衆院選挙で集団的自衛権の行使容認を訴えているのは自民党、日本維新の会、国民新党など複数あります。
公約には掲げていないものの、野田佳彦首相が「見直す議論を詰めていきたい」と述べるなど民主党の中にも容認派はいるようです。尖閣諸島などの問題や国内の行き詰まった状況がナショナリズムを高めているのでしょうか。
集団的自衛権行使へ
集団的自衛権とは何なのか。あらためておさらいします。一九八一年、政府は答弁書で、集団的自衛権について「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を実力をもって阻止する権利」と定義したうえで、「わが国が主権国家である以上、集団的自衛権を有しているが、憲法九条で許容される必要最小限の範囲を超え、行使は許されない」としています。
政府見解は定着しており、憲法改正を経なければ、集団的自衛権行使は認められないはずですが、「国家安全保障基本法」の制定によって行使が可能になるとの見方が政党間で急浮上しています。
例えば、自民党は七月の総務会で国家安全保障基本法の制定を決めました。まだ法案の概要しかありませんが、次に政務調査会が詳細な中身を定めていきます。
法案の概要をみると、第一○条「国連憲章に定められた自衛権の行使」は、国連憲章五一条の規定を根拠に集団的自衛権の行使を認めています。第一一条「国連憲章上の安全保障措置への参加」は、国連安保理決議があれば、海外における武力行使を認める内容となっています。
憲法解釈変える法律
どちらも憲法九条の解釈に明らかに反します。憲法違反の法案は国会提出さえできないのでは、そんな疑問が浮かびます。
一面はその通りです。行政府の中央省庁が法案をつくる内閣立法なら、憲法との関係を審査する内閣法制局の段階でストップがかかり、国会提出には至りません。
国会議員が法案をつくる議員立法となれば話は別です。衆院、参院それぞれの法制局が審査して意見を述べますが、提出を決めるのは立法権のある国会議員。国会で法案を説明するのは提出議員のため、答弁に窮するような問題のある法案が提出に至ることはまずないのですが、前例があります。
二〇一〇年五月、中谷元・元防衛庁長官ら五人の議員が「国際平和協力法案」を衆院に提出しました。先月の衆院解散により審議未了で廃案となりましたが、海外での武力行使が不可避な自衛隊の活動が三項目含まれ、憲法違反が疑われる内容でした。
国家安全保障基本法案も、議員立法の手続きが予定されています。自民党はこの法律とともに集団自衛事態法、前出の国際平和協力法を制定し、自衛隊法を改定するとしています。
これらの法律が成立すれば、集団的自衛権行使や海外の武力行使が解禁されることになります。法律が憲法違反か審査する憲法裁判所のような規定がわが国にはないため、法律によって憲法解釈が変更され、「国のかたち」を変えるのです。やがて憲法が自衛隊活動の実態に合わないとの批判が起こり新たな憲法が制定に至ると見込んでいるのではないでしょうか。まるでマジックです。
国会で過半数を占めさえすれば、国家安全保障基本法は成立します。三分の二の国会議員の賛成や国民投票が必要な憲法改正と比べ、なんとお手軽なことか。与党であっても党内で反対され、この裏ワザはとらなかったのですが…。
○七年、自民党の安倍晋三総裁は首相だった当時、自衛艦と並走する米軍艦艇の防御、米国を狙った弾道ミサイルの迎撃など四類型を示し、集団的自衛権行使の容認を目指しました。いったいどの国が世界一の軍事力を誇る米国に対して正規戦を挑むというのでしょうか。
海外の武力行使が可能に
起こりそうなのは、米国による海外の戦争に参加して武力行使することではないでしょうか。第二次世界大戦後、各地で起きた戦争や紛争の多くは、米国や旧ソ連が介入して始まりました。「大量破壊兵器を隠し持っている」と言いがかりをつけて米国が始めたイラク戦争に英国は集団的自衛権を行使して参戦しました。イラクへは陸上自衛隊も派遣されましたが、憲法の規定から人道復興支援にとどまりました。
日本の平和を守り、国民の安全を守ってきた憲法を法律でひっくり返す「法の下克上」は断じて認めるわけにはいかないのです。

