- 聞かない日がない
- あの夜のことは、消えない
- 別れるくらいなら、最初からくっつくな
- 諦めていたけど、何もしないわけにはいかなかった
- マユミの怒り、あの一度だけ
- マユミは、特別だった
- 好きになるなら、最後まで
聞かない日がない
世の中、夫婦仲がうまくいかず、不倫だの離婚だのという話を聞かない日がない。
テレビをつけていると、ニュースやワイドショーでそういった話題が耳に飛び込んでくる。画面をじっと見ているわけではないから、さほど記憶に残るわけでもないけれど。
それでも、暴力を振るう夫の話になると、少し立ち止まってしまう。


いったいどんな気持ちで手を上げるのだろう、と。喧嘩の最中にインタビューするわけにもいかないから、本当のところは誰にも分からない。
あの夜のことは、消えない
ボクにも、一度だけそういうことがあった。若い頃、カッとなってマユミに手を上げてしまったことが。暴力というほどのものではなかったけれど、振り払った拍子にマユミが倒れそうになった。マユミは20代の頃のことで、もう覚えていないかもしれない。
あの時の彼女の声は、今でもはっきり覚えている。時間を戻せるなら、あの瞬間のボク自身を羽交い締めにして止めたい。映像も、まだ瞼の裏に残っている。だから今でも、ふとした時に思い出す。
やってしまったことは、消せない。消えない。あれさえなければ、と今でもボクは後悔している。たぶん、死ぬまで思い出すのだと思う。
DV夫たちに言いたい。暴力を振るう前に、自分の拳をしばらく眺めてみてほしい。
別れるくらいなら、最初からくっつくな
うちではそういったことにさして興味もなく、聞きながらいつも思う。なぜそこまでこじれるのだろう、と。別れるくらいなら、最初からくっつかなければよかったのに、と。
嫌いになったとか、性格が合わないとかで、簡単に別れる。でも、性格が合わないことなんて、最初から分かっているんじゃないだろうか。
ボクには、よく分からない。
別れる前から、どちらかにはもう次の人がいるのだろう。羨ましいような、悲しいような。長く連れ添った年月が、なんと無駄になってしまうのか、と思う。それでも立て直せる人はいい。お金もいくらでもあるのだろうから。
でも、お金の問題じゃないとも思う。
諦めていたけど、何もしないわけにはいかなかった
ボクはマユミのことが好きになった瞬間から、付き合えるとも、一緒になれるとも、一欠片も思っていなかった。最初から、諦めていた。
マユミの性格の強さは、近くで見ていれば分かった。チームで長く一緒に働いていた人たちが、マユミの怒りを買わないよう気を遣っているのが伝わってきた。おじさんたちは、とくに。
でも、ボクが別棟にいた頃はまだチームに配属される前で、マユミのそういう一面を知らなかった。怖いもの知らずのまま、ボクはマユミに急接近した。前からいた人たちには、どう映っていたか分からない。でも何も言われなかった。きっと、ボクにもマユミにも、そっと気を遣ってくれていたのかもしれない。
諦めていたけど、何もしないわけにはいかなかった。何もしないで諦めるくらいなら、好きになるな、と。一目惚れなんてするな、と。自分に言い聞かせながら、それでも動いていた。
マユミの怒り、あの一度だけ
「あたしのいうことが聞けないの!」
過去に一度だけ、マユミがボクに本気でキレるのを見た。
名指しで、相当な言葉をもらった。「マユミって、そんなに男みたいな言葉使うの」って思ったくらい、酷い言葉だった。信じられないんだけど。
周りには大勢の人たちが作業しているというのに、職場の空気が一瞬で凍りついた。あの時だけ、マユミの頭にツノが見えた気がした。それくらい、すごかった。

マユミの怒りを知っているおじさんたちは、黙って見て見ぬふりをしていた。自分たちに火の粉が降りかからないよう、そっと身を引いていたのが分かった。
そんな最中、リーダーに用があって上がってきた上司が、たまたまそばを通りかかった。ボクはつい、小声で『怒られてしまいました』とそっと話しかけた。上司も苦笑いしながら『そうみたいやね』と受けてくれた。
それを、マユミが見ていた。
「男のくせに告げ口するな!」

また怒りの一発が飛んできた。上司は苦笑いしながらそそくさと立ち去り、ボクはただ小さくなっていた。
20名ほどのオフィスが、シンと静まり返っていた。20人いるのに、その空間にいるのはボクとマユミの2人だけのような感覚だった。静かなフロアに、マユミの言葉だけが響いていた。

でも、あれは完全にボクが悪かった。
前の日の帰り際、上司とマユミとボクの3人で話をしていた。マユミはボクの体のことを考えて、仕事の段取りを組んでくれていた。それを翌日、ボクは無視して勝手に動いてしまった。マユミの指示も、注意も聞き流した。この仕事はボクも加わらないとそう思い込んで。
マユミの地雷を踏んだのは、あの一度きりだった。
あの剣幕は今でも忘れられない。胸がギュッと締まるような、あの感覚。それでもマユミのことが嫌いになることはなかった。
むしろ、あの怒りの裏にあるものが、じわりと伝わってきたから。
マユミは、特別だった
マユミはボクの体のことを、いつも一番に考えてくれていた。会社にも、チームにも、さりげなく伝えてくれていたようだった。カバーしてくれていることに、ボクは気がついていた。
マユミとリーダーが話しているのが遠くに見えて、声は聞こえないけれど、なんとなく察した。『あっ、今、ボクのことで何か言ってくれているんだな』と。
こんな人に、初めて出会った。
今まで別の会社で働いたこともある。でも、どこも普通の対応だった。自分のことは自分でやる、それが当たり前の世界で、それはそれで仕方のないことだと思っていた。
でもマユミは違った。いつでも当たり前のように、自然にボクをフォローしてくれた。それが苦痛だとか、面倒だとか、そんな素振りは一切なかった。今考えると、すごいことだと思う。
フィクションの世界でも、ここまでやっているドラマは見たことがない。まあ、そんなドラマは視聴率が取れないだろうけど。あまりにも、現実とかけ離れているから。
世の中、人のことより自分のことが一番。自分さえよければいい。そういう空気は、じわじわと感じる。
だから余計に、マユミのことがありがたかった。
好きになるなら、最後まで
好きになるなら最後まで。最初に出会った頃のあの気持ちを、ずっと持っていたい。忘れたくない、と思っている。
年数が経てば、姿形は変わる。それは仕方のないことだけど、ずっと一緒にいたいという気持ちは、変わらない。
昔のことを思い出そうとすると胸の奥がざわっとする。あのワクワクした感じ。写真を撮っておいてよかった、と心から思う。
写真がなければ、30年前のマユミは瞼を閉じても思い出せないのだから。
あの頃の写真を見ると、初めて見た時の気持ちが、するっと戻ってくる。付き合えてよかった。一緒にいなくちゃ困る人。親と過ごした時間よりも、ずっと長く隣にいる人。