まさか、ね──マユミとの話
このブログを読んでくださっている方は、もうヒロとマユミのことを、ずいぶん長く知っていてくださっている。
ふたりが結婚するまでの話、結婚してからの話、日々のたわいない話。そういうものを、2年ほどかけて少しずつ書いてきた。
マユミと出会った頃のことも、断片的にはここで触れてきた。でも今回は、まだうまく言葉にできていなかった部分を、もう少しだけ手繰り寄せてみようと思う。
片思いをしていた頃の、ボクの話。
当時の記憶は、古い写真のように色が褪せている。それでも最近、古いハードディスクを整理していたら、思いがけないものが出てきて——記憶の底に沈んでいたものが、少しずつ、浮かび上がってきた。
思い出しながら、気づいてしまったことも、ある。
ずっと片思いをしていたつもりだった。
そう、思っていた。
陽炎の中にいた人
画像生成で作ったマユミは、頭のてっぺんから爪先まで、ちゃんと立っている。
それが見たかった。ずっと、それだけが見たかったのだと気づいた。
でも記憶の中のマユミは、いつも陽炎みたいにゆらいでいる。輪郭がはっきりしない。顔も、声も、どこか遠い。
写真と日記と、記憶の話
幸い、写真がある。
別棟で初めてマユミを撮った日から、配属が同じになってからも、ボクはずっとマユミを撮り続けていた。仕事で一眼レフを持ち込んだついでに、撮りまくった。今残っているファイルは、そのときのものだ。
ブログを始めるまでは、3年か5年に一度、気が向いたときにクラウドを開いて、一瞬だけ見て、すぐに閉じる、そういうことを繰り返していた。じっくり見る気にはなれなかった。なれなかった、というより、なってはいけない気がしていたのかもしれない。
あるとき、クラウドの中に日記ファイルがあるのを見つけた。読み返すと、当時のやり取りが、驚くほど鮮明に戻ってきた。
文字というのは不思議で、一行読むと次の記憶が引っ張られて、また次の記憶が引っ張られて、芋づる式に、あの頃の全部が海の底から浮かび上がってくる。
写真はそうじゃない。
その一瞬は切り取られているけれど、前後が繋がらない。写真の中のマユミははっきり写っている。綺麗だったな、というイメージは浮かぶ。でも写真は動かないし、しゃべらないし、そこで終わる。
ビデオがあればよかった。動いて、しゃべって、笑っているマユミが見られたなら。でも会社にビデオカメラを持ち込むわけにもいかない。
最初の遭遇──別棟の午後
話は、もっと前に戻る。
マユミが入社してきたのは、ボクより5年後のことだった。会社は新人を色んな部署に少しずつ回して、仕事を覚えさせる。そのひとつとして、本社から少し離れた別棟——ボクがひとりでこつこつ作業していた場所に、マユミがやってきた。
挨拶がてら、お手伝いします、という感じで。

ボクはその時、少し固まった。
遠くから綺麗な人だなと思っていた。入社してきたばかりのその人を、廊下の向こうで一度だけ見かけて、胸のどこかがキュッとした。芸能人みたいなスタイルをしていて、なんでこんな変哲もない会社に来たんだろうと、勝手に思っていた。
その人が、こんな別棟まで来るとは思っていなかった。まさか、ね。
作業の説明をしながら、機械の説明をしながら、世間話を少しした。心の半分はウキウキしていたけど、平静を装った。ひとりで淋しく作業していたのもあるだろうし、隣にいるのがマユミだったのもある。ただ、ウキウキしていたのは確かだ。
なぜこんな会社に来たのかと、ボクはハッキリ聞いた。するとマユミは、ここに来る前はコンパニオンをやっていたと、サラッと言った。
こんな女性と付き合いたいな、と思ったかどうか、正直あまり覚えていない。でも、ボクには絶対に勿体ない人だと思ったことは、覚えている。
あの午後のことを、今でもときどき思い出す。会社の指示で、たまたま、来ただけの話だ。でも、あの午後だけは、今でもどこかにある。

通路の記憶
別棟での一日が終わり、マユミはまた別の部署へ回っていった。
それからしばらくの間、ボクが配属されていた部署からの退社ルートは、マユミの作業場所の横の通路を通っていた。いつもマユミは残業していた。若い社員と並んでパソコンを見ている。
あの社員たちとマユミは、もう何年も一緒にいる。同じ場所で、同じ時間を、何年も積み重ねてきた人たちだ。ボクとマユミの接点といえば、別棟であの一日を過ごしただけ。それだけだった。
ふたりの距離が近いな、と思いながら、ボクは通用口から出ていく。羨ましいな、とも思っていた。あの人たちと自分の間にある、埋めようのない時間の差を、なんとなく感じながら。
今思えば、あのとき、もう好きだったんだと思う。意識する前から、毎日横目で見ながら、何も思っていないふりをして、会社を出ていた。
時々、来てくれた
そのうち、マユミが時々、顔を見せに来るようになった。
他の部署の仕事を終えた帰り道に、ついでに、という感じで。用があるわけじゃない。挨拶か、ちょっとした会話か。それだけ。でも、来る。数年の間、ときどき、そうして来てくれた。
ボクはそれを、そういうものだと思っていた。帰り道のついでだろう、と。
でも今思えば、別棟に用のある帰り道なんて、そんなにあるはずがない。
その頃、ボクは時々、コンデジカメラを持ち込んでいた。来てくれたマユミが、誰もいない作業室でボクの向かいの椅子に座って寛いでいる。そのタイミングを、ボクはちゃんと知っていた。



カメラを向けると、マユミは嫌がらなかった。それどころか、ポーズをとったりして、相手してくれた。ボクはドキドキしながらシャッターを押していた。
会社でこんなことをするのは良くないとわかっていた。でも、ふたりだけの時間に、ふたりだけの秘密で、マユミはたくさん撮らせてくれた。
他の人はカメラを向けるだけで嫌がるのに、なぜマユミは嫌がらなかったのか。その時は、わからなかった。
今も、マユミはそのことに何も触れない。
ただ、心の奥にしまったまま、今日も隣にいる。
同じ場所で働くことになった理由
ボクの配属元の部署が業務転換で閉鎖になることになった。上層部がボクの異動先を検討していたのだと思う。そのときの上司は、ボクの部署とマユミの部署を兼任していた。
上司がマユミに聞いたのではないかと、今は思っている。マユミが、自分の所に引っ張ったのではないかと。
そうして、ボクとマユミは同じ場所で毎日働くことになった。
ボクはただ、配属が決まったのだと思っていた。
5秒の動画
古いハードディスクを整理していたら、見慣れないアイコンが並んでいた。
クリックすると、マユミが動いていた。
本当に、忘れていた。30年前のマユミが、そこにいた。携帯電話が出始めた頃の機種で撮った、ほんの5秒ほどの映像。配属が同じになるよりずっと前、別棟に来てくれていた頃のものだ。なぜかファイルをパソコンに移してバックアップしてあって、奇跡みたいに再生できた。
さりげなく、見た。さりげなく、次に進んだ。
でも、その5秒は、ちゃんとそこにあった。
マユミが向かいの椅子に座って、寛いでいる。ボクの名前を呼んで、何かを話しかけている。笑っている。何を話していたかは、思い出せない。たぶん、「ヒロはなんとかだね」みたいなことを言っていたような気がする。
叱らなかった理由
マユミはよく、ボクに撮らせてくれた。別棟の頃も、配属が同じになってからも。
なぜだろうと、今でも思う。何年も一緒にいる人たちがいる中で、まだほとんど接点のないボクに。仕事場が同じでもなく、デスクの島が同じでもなく、別棟でたまに来てくれるだけの、どこの馬の骨ともわからないボクに。
カメラを向けると、マユミは逃げなかった。レンズを向けるたびに、「もう、しょうがないな」というような顔で笑った。困っている誰かを放っておけないときの、あの笑い方と、同じ顔で。
少し気の強いところもある人だったから、嫌なら一言で終わらせることができた。好きだと言ったボクを、マユミは叱らなかった。撮らせてあげて、名前を呼んで、笑った。
突き放すより、受け止める方を選んだ。
それが、マユミの答えだったのかもしれない。
一目惚れの話
ただ——ボクはその頃、もう「好きだ」と伝えていた。
一目惚れだった。最初に見かけた廊下の向こうから、もうそうだったのだと思う。告白したのは、配属が同じになって、毎日顔を合わせるようになってからだ。何年も横目で見ながら、来てくれるたびにウキウキしながら、それでも我慢して、我慢して、同じ場所に来てようやく言えた。
ボクは配属替えで来た新米で、元からいる人たちより2、3年は時間の差がある。右も左もわからないし、仕事もさほどない。片付けばさっさと帰っていた。マユミと何年も肩を並べてきた人たちとは、積み重ねた時間がまるで違う。
それでも。
陽炎みたいにゆらいでいた記憶が、動画の中でだけ、一瞬、静止した。
そういうことだったのかもしれない。
先に動いていたのは
恐れ多いけど——よく告ったものだと、今だから思う。
いや、待てよ。
別棟に来たのは、会社の指示だ。でも、その後も帰り道にわざわざ寄ってくれたのは、会社の指示じゃない。何年も一緒にいる人たちがいて、ボクとの時間なんて比べものにならないくらい薄かったのに、配属先に引っ張ったのも、マユミの意志だ。カメラの前で逃げなかったのも。叱らなかったのも。
先に動いていたのは、どっちだ。
ボクはずっと、片思いをしていたつもりだった。
それでも、好きだと伝えられた。ちゃんと、届いた。
そのことだけは、今でも、静かに胸の中にある。