不自由な恋を選んだ理由──“普通の女性”が献身を選ぶとき
第4章:それでも好きになってしまった——“普通の人”の心の動き
マユミがヒロと初めて話したのは、職場の給湯室だった。
「お湯、出ないですね」
そう言って、ポットを何度も押しているヒロの背中が、妙に真面目で、ちょっと不器用で。
マユミは思わず笑ってしまった。
「それ、電源入ってないですよ」
「あ、ほんとだ……すみません」
ヒロは照れたように笑って、ポットのコードを差し直した。
その笑顔が、なんだか“普通”で、でもすごく安心したのを覚えている。
ボクは、自分のことを「目立たない人間」だと思っていた。
職場でも、飲み会でも、誰かの話に相づちを打つ側で、自分から話題を振ることはほとんどなかった。
でも、給湯室でマユミに声をかけられたとき、「この人は、自分のことをちゃんと見てくれてる」と思った。
恥ずかしさよりも、なぜか安心感のほうが勝っていた。
それから何度か、同じ時間に給湯室で会うようになって、
マユミはヒロの話し方や、言葉の選び方に、少しずつ惹かれていった。
ヒロもまた、マユミの言葉のやさしさや、間の取り方の心地よさに惹かれていた。
何より、自分の話をちゃんと聞いてくれる人だった。
「特別なことは、何もなかったんです」
マユミはそう言う。
「でも、なんか……一緒にいると、心が静かになる感じがして」
「好きだな」と思ったのは、ある雨の日だった。
マユミが傘を忘れて、駅まで一緒に歩いた帰り道。
彼女は濡れた髪を気にしながらも、「雨って、嫌いじゃないです」と笑った。
その笑顔が、ボクの中に静かに残った。
恋に落ちる瞬間って、ドラマみたいに劇的じゃなくてもいい。
むしろ、何気ない日常の中で、ふとした仕草や言葉に心が動くことのほうが、ずっと深くて、ずっと長く残るのかもしれない。
ヒロは、マユミにとって“普通の人”だった。
でもその“普通”が、彼女にとっては特別だった。
誰かの優しさに気づける心。
誰かの不器用さを、愛しく思える余裕。
それは、マユミ自身が持っていたものでもある。
ボクは、マユミに何か特別なことをしてあげたいとは思っていない。
ただ、彼女が安心できる場所になれたらいい。
彼女が笑ってくれるなら、それだけで十分だと思っている。
「好きになった理由なんて、うまく説明できないです」
そう言って笑うマユミの顔は、少し照れていて、でもどこか誇らしげだった。
給湯室のポットが、静かに湯気を立てていた。
昼休み前の、少しだけざわついた空気のなかで、マユミは紙コップを手にしていた。
ヒロも、いつものように同じ時間に現れて、何も言わずに隣に立った。
ふたりの間に、言葉はなかった。
でも、マユミがふとヒロの方を見て、ヒロも同じように目を向けたとき、ほんの一瞬、目が合って、ふたりとも、少しだけ笑った。
それは、声に出すほどの笑いじゃない。
でも、たしかにそこにあった。
「今日も会えたね」とか、「なんでもないけど、なんか嬉しいね」とか、そんな気持ちが、言葉にならないまま、ちゃんと伝わっていた。
ヒロは、紙コップに注がれたお湯を見つめながら、マユミの笑顔が、今日も変わらずそこにあることに、静かに、でも深く、安心していた。
マユミもまた、ヒロの不器用な優しさが、
何も言わなくても、ちゃんとそこにあることに気づいていた。
給湯室のドアが、誰かの手で静かに閉まる音がして、ふたりはそれぞれの席に戻っていった。
何も起きていないようで、でも、心のなかには、あたたかいものが、そっと残っていた。