夫婦で同じ職場にいるということ──結婚後も続く、さりげない恋

「……おはよう」
小さな声が、静かなフロアに落ちた。
バッグを置き、椅子に腰を下ろすその仕草まで、やわらかい。
「おはよう」
口から出たのは、ただの言葉。
けれど心臓は、もうずっと前から知っている。
今日という一日が始まった、と。
***
会議室でページをめくる音。
彼女の指先が紙を押さえ、そっと囁く。
「……このページ、順番逆じゃない?」横顔は冷静で、凛としている。
でも、視線はどうしても指先に落ちてしまう。
小さな爪の形まで、なぜか気になって。
——ほんの数秒。
それだけで胸がざわつくのは、気のせいだろうか。
***

通路で偶然すれ違う。
「……かぶったね」
軽く笑う声が、背中に残る。
「偶然だよ」
肩をすくめて返す。
ほんの一瞬並んで歩いただけ。
「帰り、スーパー寄るから」
「了解」
それは仕事のやり取りのように見える。
けれど、暮らしの匂いが、かすかに混ざっている。
——誰にも聞かれたくないのに、誰かに知ってほしいような、そんな秘密の会話。
角を曲がって姿が消えるまで、呼吸を整えながら立ち止まる。
***
午後。ファイルが差し出される。
「このページ、体裁整えておきました」淡々とした声。
開いたページに貼られた小さな付箋。
【今日、肉と魚どっちがいい?】喉の奥で笑いがはじけそうになる。
それを押し殺して言う。
「ありがとう、助かる」
——助かっているのは、ほんとはボクのほうだ。
こんな小さな問いかけで、一日の重さが軽くなる。
***
夕方。コピー機の音だけが響く。
「あと何部必要?」
「30部」
静かなやり取りのあと、声を落として言う。
「了解。……あ、牛乳も忘れずにね」
彼女は涼しい顔のまま、目だけで笑った。
「ふふ……了解」
——仕事の顔の裏で見せる、ほんの一瞬の素顔。
それだけで、今日という日が報われる。
***

夜。
フロアに静けさが戻り、二人だけ机を片付ける。
「そういえば、マキ、旅行行きたいって」
「どこに?」
「箱根。でも休めるかどうか怪しいみたい」
「マキは、自由だな」
くだらない会話に、ふと笑い合う。
笑った時間の温度が、帰り道まで続いていく気がした。
***
エレベーターの中。
沈黙とともに扉が閉まる。
並んで立つ彼女の横顔。
——今日も同僚として過ごし、その合間に小さな暮らしを交わした。
ほんの一瞬の温もりが、日常を少し特別にしてくれる。
明日もまた、同じように始まり、同じように終わるだろう。
けれど、同じ一日なんて、ひとつもない。
そう思えるだけで、胸の奥がすこしやわらかくなる。
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