- 最新更新日:2025/09/02、画像を差し替えました。
- 初回更新日:2025/08/29
自宅から電車で20分、港町で過ごす夫婦の午後──ワンピース姿の妻と港町のやさしい時間
「……誰かと会うの?」
そう言いかけて、ボクはすぐに口をつぐんだ。
日曜日の朝。マユミが鏡の前で、くるりと髪を巻いていた。

細身の白いワンピースに、石畳でも歩きやすい高さのヒール。
香水の香りも、いつもと少し違う。
「今日は元町に行こうって言ったじゃん。ランチの予約も入れてあるよ?」
マユミが口紅を整えながら、さらりと言った。
「え……ボクと行くんだよね?」
「もちろん。ほかに誰と行くと思ってるの? まさか、マキと?」
そう言って、彼女はボクの顔を見ずに笑った。
ふと、胸の奥に小さな不安がよぎる。
ボクと行くためじゃないかもしれない──そんなことを考えてしまうのは、きっとマユミに惚れている証拠だ。
「今日は、海辺の町から港町まで。電車で二十分くらい。十二時の予約に間に合うようにね」
自宅を出て、最寄り駅まで二人で歩く。
日曜の午前の道は少し静かで、蝉の声と、どこかの庭から漂う朝顔の匂いがした。
駅から東海道線に揺られて二十分。
窓の外の景色が、少しずつ町並みから港の空気へと変わっていく。
マユミは車窓を眺めながら、時折スマホで時間を確認していた。
そして、港町の駅に降り立ったとき、
風に混じって──ほんのりと 海の風の気配 がした。
そこから元町に向かい、老舗フレンチ「霧笛楼」でランチ。
すべて、マユミが予約してくれていた。
「ヒロ、最近ちょっと疲れてるでしょ?」
「……え、そう?」
「デスクに座ってる時間、長いし。目が沈んでるの、分かるよ。
だから今日は、気分転換。ちゃんと歩いて、ちゃんと食べて、ちゃんと笑う日」
「……ねぇ、ちょっと歩こうよ」
「港の見える公園まで?」
「ううん、今日は山手の西洋館巡りしようと思って」
マユミは地図アプリを開きながら、コースをさらりと説明する。
えらく準備がいい。ボクが驚いていると、彼女はくすっと笑った。
「ヒロ、最近ちょっと覇気ないもん。
だから今日は、昔みたいに手をつないで歩きたかっただけ」

マユミのヒールが、石畳をコツコツと鳴らす。
山手本通り、外交官の家、ベーリック・ホール…。
季節の花が咲く庭園と、ゆるやかな坂道を歩きながら、ボクは何度も彼女の横顔に目をやった。
「……その服、すごく似合ってるね」
「今さら? でも、ありがとう」マユミは、ボクの隣で静かに目を閉じた。
やがて、港の見える公園のベンチに腰かける。
潮風が髪をふわりと揺らし、時間が止まったように感じる。
「ヒロがいるから、わたしもオシャレしたくなるの」
「ボクも、マユミがいるからちゃんと歩きたくなる」
二人で手をつなぎながら眺めた港の向こう。
遠くに貨物船が静かに進んでいった。

海辺の町から港町へ。
たった二十分の距離なのに、心はずっと遠くまで歩いてきた気がした。
──それは旅行でも特別な日でもなくて、
ただの日曜日。
でも、こういう午後のことを、人は幸せって呼ぶのかもしれない。
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