緊張と冷や汗――“怖いほど優しい”妻の察知力と、ふたりだけの帰り道
午後――明日は、大手クライアント向けのプレゼン。 社内ではリハーサルが続いていて、緊張の空気が漂っていた。
ボクは黙々と机にかじりついて、資料の最終チェックに集中していた。
だけど額にはじんわり冷や汗がにじみ、呼吸もどこか浅くて速かった。

自分では気づいていないふりをしていたけれど、体は正直だった。
そのとき、マユミが静かに近づいてきた。
「ヒロ、ちょっと」 何気なく後ろから資料を覗き込む彼女の手が、そっとボクの肩に触れる。
そのままボクの顔色と呼吸を、あからさまに確かめた。
「……ヒロ、顔、白いよ。さっきから息、少し荒い。薬、飲んだ?」
彼女の言葉に、ボクは慌てて顔を上げて笑ってみせる。
「大丈夫、ちょっとフラフラするだけ…」
けれど、マユミはすぐにボクの席を指差した。

表情には一切のためらいがなかった。
「今すぐ席、立って。移動しよう」
空気が一瞬ピリッと張り詰める。
周囲に言葉はなかったが、ボクはマユミに支えられ、男性更衣室のソファに横になった。

白くて静かな照明が、冷静な雰囲気をつくっていた。 ふたりだけの空間。
その中で、マユミがじっとボクを見ていた。
まるで、体調だけじゃなくて心の状態までも観察しているようだった。
少しして、ロッカーから薬と紙コップに入った水を持ってきた彼女が、無言のままボクの手元にそれを差し出す。

「ゴメン。ボクのために……」とボクが言うと、 彼女はためらいなく首を振って言った。
「当然でしょ。あなたが倒れたら、明日のプレゼンどころじゃなくなるもの」 その言葉は冷静だけど、その奥に滲む愛情は隠せなかった。
職場では“頼れるリーダー”でありながら、ボクにとっては、計り知れない存在だった。
「ヒロ、ちょっと待ってて」 そう言って、マユミは更衣室を出て行った。
しばらくして、戻ってきたときの彼女は、「今日は、もう帰るって、許可取ってきた」
「えっ……」とボクが驚くと、 マユミは安心させるような穏やかな声で続ける。
「わたしも一緒に帰る。心配だから一緒に帰らせてくださいって、上司に言ってきたから」 「もうこのままでいいから、駐車場に行こ」

言葉の余韻も待たず、マユミはさっと荷物をまとめ、ボクを車まで支えて歩いた。
途中、同僚たちから「どうした?」「具合悪いの?」「帰るの?」「お大事に」といった声が聞こえてくる。
それに対して、マユミは仲のいい女子社員に笑顔でさらっと返していた。 「ちょっと悪いから、連れて帰るね」

彼女はボクを支えてクルマへ向かった。
彼女は一度会社に戻り、着替えをすませたあと、自分とボクの荷物を持ってきてクルマに載せた。


マユミは運転席に乗り込むと、静かにボクを見た。
「具合はどう?」
「……あぁ、かなり良くなったよ」
「よかった」
もちろん運転はマユミだ、彼女はもの凄く安全運転だ。
その夜。家に戻ったふたりは、静かにソファに並んで座っていた。
ボクは、少しだけ目を閉じて、静かな空気を吸い込んだ。
「マユミ……怖かったけど……優しかったな」
彼女は微笑んで、肩をすくめただけだった。
言葉はない。でも、その瞳の奥には、確かな信頼と安心が映っていた。
カモミールの香りが、ふたりの間にふわりと漂っていた。
ボクは、その横顔を見ながら思った。
こんなにも不器用で、弱いところばかりで。
逃げ腰で、自信もなくて。
「どうして、この人を支えるの?」
誰かにそう聞かれたら、答えに詰まるような男だ。
なのに、マユミは黙って隣にいる。
「大丈夫」とも「がんばって」とも言わない。
ただ、静かにそこにいる。
――あの強さは、どこからくるんだろう。
ボクには、きっと一生かかっても辿りつけない強さだ。
もっと、知りたくなる。
あの瞳の奥にあるものを、少しだけでいいから覗いてみたい。
どうして、こんなボクを見てくれるのか。
どうして、ここにいてくれるのか。
それが、ずっと知りたいと思っていた。
もし、ボクの中にまだ残っている“ちゃんとした部分”を、マユミが見つけてくれているのだとしたら――
それは、救いだった。
彼女の隣にいることを、ちゃんと大切にできるようになりたい。
マユミが、ずっと隣にいたいと思ってくれるボクでいたい。
テレビはついていたけど、音は消していた。
窓の外の夜は静かで、部屋の中にだけ、小さな時間が流れていた。
そして、ほんの一瞬だけ。
マユミが口を開いた。
「……小さい頃ね。まだ小学生にもなっていなかった頃、お父さんが急にいなくなったの」
ボクは息をのんだ。けれど、彼女は淡々としていた。
話したくて話した、というより――今日の静けさが、その記憶を運んできたような感じだった。
「病気だった。何も知らないまま、病室から戻ってこなかったの。説明も、よくわからないままで」
そこから先は、彼女の言葉の奥にあった。
続けなくても、ボクには伝わっていた。
「それからずっと、誰かがそばにいるってことが……ちょっと怖かったの。ちょっとだけ、安心でもあって……」
マユミは目線を落として、小さく笑った。
笑顔だけど、どこかぎこちない。自分でもうまく言えないと感じているような顔だった。
「ヒロのこと、最初はね……“この人、大丈夫かな”って思ったの。ほんとに、正直に」
それは責めるでも、慰めるでもなく。
ただ、静かな事実として語られた。
「でもね……ヒロが苦しそうにしてる顔を見ると、どうしてだろう……放っておけなくなるの。なんかね、すごく似てるなって思うの。お父さんに」
ボクは言葉を失っていた。
彼女は目を伏せたまま、言った。
「たぶん……いや、きっと、他の人だったら嫌がると思う。病気のことも、不器用なところも。でも、私は……どうしてか離れられないの。なんでかは、わからないけど」
その声には、答えを探すよりも、ただ今ある感情がにじんでいた。
「ほんとは、もっと頼りがいのある人のほうがいいのかもしれないって……考えたこともあるよ。ちゃんとしてて、器用で、余裕があって。でも――」
少しだけ、言葉がとぎれる。
「ヒロが苦しそうなとき、私……胸がぎゅっとなるの。なんか、つらくて、そばにいたくなっちゃうの」
ボクは、ただ静かに彼女の声を聞いていた。
マユミの声はやさしかった。でも、その奥にあるものが、まっすぐに響いてきた。
「私、変なのかな……」
違うよ、と言いたかった。なのに、声は出てこなかった。
気づけば、涙が落ちていた。静かに、音もなく。
マユミはそっとボクの手に触れて、ふわりと微笑んだ。
まるで何でもないみたいに。
でも、それは――ボクにとって、すべてだった。
それだけの言葉なのに、涙が止まらなかった。
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