何気ない“同伴”が、心の奥に残る恋の始まりだった
思い出すだけで、少し照れる。
浜崎あゆみの『M』という曲ばかり聴いていたころ、この日記を書いた。
美容師の日記を書いていたら浜崎あゆみを思い出したのです、毎日、毎日、カーコンポや携帯電話に入れて聴いていました。
まだ結婚する前のこと。
あの時は、職場の空気にも少しずつ慣れてきていたけれど、マユミに対してだけは、どうしても特別な気持ちが隠しきれなかった。
仕事を終え、定時のチャイムが鳴って。
片づけをして帰ろうとした時、ふと彼女がまだ席にいるのに気づいた。
彼女はいつも、秒で帰るタイプで――カバンを持った瞬間、仄かにマユミのフローラルな香水の残り香だけ残して消えてしまうくらい。
それが今日は、目の前にマユミがいるだけでなんだか嬉しくて。
ボクは機器の電源を落としながら、少しだけゆっくりと動いてみた。

暫くして、彼女も立ち上がった。
自然な流れで一緒にエレベーターに乗って、更衣室も同じタイミングで出た。
その時の空気は、今でも忘れられない。
更衣室を出た瞬間、横の女子更衣室からマユミが出るのとタイミングが同じに、「オゥ!」「アラッ!」
他愛ない一言なのに、ボクの心臓はやけに忙しく跳ねていた。

そして、ちょうどそこへHさんが現れて、「同伴か?」と声をかけてきた。
マユミは「ウフフ、同伴よ」と笑って返す。
その笑い方が、あまりに自然で――ボクは言葉に詰まってしまった。
年齢的にはそれなりに“大人”だったはずなのに、マユミの隣を歩くだけでもドキドキして、顔には出さないようにしていたけど、心の中では照れ臭くて。
我ながら、うぶで青かったと思う。

上司の前をふたり並んで通り抜ける時も、「失礼しま~す」と声をそろえた瞬間に、胸がふわっとなった。
まるで映画のワンシーンみたいだと思ってしまった。
外に出るまでにいろんな人と遭遇するものだな。
その場にいたのはもう一人――Tさん。
受付の向こうにいたTさんは、じっとこっちを見ていた。
社内ではちょっと有名で、いつも「俺はオバサンにモテモテでね」と豪語しては、あっちこっちの年の近い既婚女性の隣にぴったりくっついて談笑してる人だ。
60近くで独身、見ているこちらが気恥ずかしくなるくらい、いつも社内のオバサンと楽しげにイチャついては満足げにしていた。

昔はマユミにも近寄ってた時期があった。
そのときのボクは少し、いや、かなり気が気じゃなかった。
かつてはマユミに近づいていたけれど、彼女が軽やかにかわした姿を見て、少し安心した記憶がある。
最近はTさんも距離を取っていて、マユミがあれだけ構ってくれてたのにどうしたのかなと不思議な顔でマユミを見ている。 今日のTさんの目は、何かを言いたそうで、でも言えなかったようにも見えた。
もちろん、誰かに自慢したいわけじゃない。
けど、ボクはこの会社で一番の美人(ボクが勝手に思っている)――マユミひとすじ。
彼女は、まだ30代。
若くて、しなやかで、強い。
ただ、その日のことを思い返すと、今でもちょっと頬が熱くなる。
いつか突然、彼女がいなくなる日が来るかもしれない。
その怖さはいつも、胸の片隅にある。
だからこそ、ボクは今、一緒にいる時間を堂々と大事にしたい。
誰かに見られたって関係ない。
茶化されてもいい。
マユミといると、心が落ち着いて――
力が湧くんだ。
彼女のことが、好きだから。
誰にも、渡したくない。
――今では夫婦になったマユミ。
だけど、あの頃のやりとりは――たまらなく甘くて、切なくて。
そして、少しだけ青くて。
マユミといると、癒される。
力が湧くんだ。
だから、あの日のこと。
ボクはずっと忘れたくない。
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