# マユミの労い
朝の空は、少し霞んでいて、海の匂いが混ざったやわらかな風が流れていた。
今日は、大きなプロジェクトの納品から一夜明けた日。
マユミは、少し疲れた顔で、家の玄関を出た。
「今日もクルマ、お願いね」
いつも通りの言葉に、ヒロは静かにうなずいて、運転席へ。
マユミが助手席のドアを開けたその時――

「……え?」
足元に、白い紙袋がそっと置かれていた。
その中には、小さなギフトボックスと、折りたたまれたカードがひとつ。
『マユミへ、プロジェクト、本当におつかれさまでした。今日はこのまま、まっすぐ帰らない予定です。助手席に、もうひとつの楽しみが入っています。ヒロより』
マユミは、思わず息を飲んだ。
なんだかくすぐったいような、嬉しいような、不思議な気持ち。

カードの下には、淡い色のラッピングペーパーに包まれた、『ロクシタン』のハンドクリームとマユミの好きな紅茶のセット。
それは、以前マユミが「これ、好きなんだ」と呟いたことを覚えていたヒロからの、小さなサプライズだった。
会社に到着して…午前中、会社の空気はどこか明るかった。
大きなプロジェクトの納品を終えて、みんながホッとひと息ついていたからだ。
ヒロとマユミも、最後の確認作業を終えて、ようやく席を立った。
午後3時すぎ、少し早めの退社。ふたりでそっと会社を出た。
「ちょっとドライブしようか」
ヒロの言葉に、マユミは笑ってうなずいた。

そのまま、車は西へ向かう。
夕陽に染まり始めた国道134号線を走りながら、ヒロは時折ちらりとマユミを見た。
「疲れてない?」
「ううん、平気……なんか、すごく元気出てきた」
少し照れたように、マユミが笑った。
やがて、車は由比ヶ浜の駐車場に着いた。
海は静かで、遠くに江の島が霞んで見える。
ヒロは後部座席から、保冷バッグをそっと取り出した。
中には、マユミの好きなサラダとキッシュ、それに瓶入りのスパークリングアップルジュース。
「実はね、今朝、会社の冷蔵庫にこっそり入れておいたんだ」
マユミが驚いたように目を丸くする。
「冷蔵庫って、あの大きいやつ?」
「そう。誰にも見つからないように、裏側の棚の一番奥。ちょっとしたスパイ作戦だったよ」
マユミは思わず吹き出して、「ふふ、もう……なにそれ」と肩を揺らして笑った。
「だってさ、今日はマユミを労う日って決めてたから、ちゃんと美味しい状態で食べてほしかったんだよ」
その言葉に、マユミはふっと口元をゆるめて、少し照れたようにつぶやいた。
「……そんなことまで考えてくれてたんだ」
ヒロは、少し照れながらも満足げに笑った。
「うん、今日はマユミの日だから」
「今日はさ、外でディナーじゃなくて……この中で、乾杯しない?」
車の中にランタン代わりのミニLEDライトをつけて、ふたりは紙コップで乾杯した。

「おつかれさま、マユミ」
「……ありがとう。ほんとに、ありがとう」
マユミは、ふっと肩の力を抜いて、ヒロの肩に頭を預けた。
窓の外の夕焼けが、やわらかくふたりを包む。
「この仕事が終わったとき、真っ先に“終わったね”って言ってほしかったの、ヒロに」
「……言えて、よかった」
波の音と、カモメの声と、微かなエンジン音。
クルマの中は、ささやかながら、あたたかなホームだった。
そして、ふたりは小さく笑い合った。
マユミの目元が、すこし潤んで見えたのは、夕陽のせいだったかもしれない。
今日だけの、助手席の“ありがとう”。
そんな夜が、いつまでも記憶の中で、やさしく灯り続けるように――。
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