『おやすみの手前で』
夕食が終わると、リビングにはゆっくりとした時間が流れ始めた。
マユミがキッチンに立ち、静かにお茶をいれてくれる。
湯気の立つ湯呑みを、ヒロとマキの前にひとつずつ、そっと置いた。

時計の針は夜8時を指していた。
「よし、そろそろ課題やらなくちゃ」
マキが小さく伸びをしながら、立ち上がる。

「えらいね」
マユミが笑いながら言うと、マキも照れたように笑って、手を振る。
「じゃ、マキ、おやすみ」
「おやすみ、ふたりとも」
マキが自分の部屋のドアを静かに閉めたあと、リビングには窓の外の風の音だけが残った。
ヒロはソファに寝転がって、マユミをぼんやりと見つめていた。
目元が少し重たくて、眠気がじわじわと押し寄せてくる。
「疲れた?」
マユミが隣に腰を下ろし、ヒロの背中をそっと撫でる。

「……うん、ちょっとだけね」
「明日から忙しくなるもんね」
「プロジェクト、もう終盤だし」
マユミの声は、いつもと変わらず、落ち着いていて、あたたかい。
その声に包まれていると、体の奥に溜まっていた疲れが、少しずつほどけていく気がした。
「でも……無理しすぎちゃダメだよ」
「うん」
「あなた、いつも自分のこと後回しにするから」
そう言いながら、マユミの手が、ヒロの背中をゆっくりと行ったり来たりする。
その優しさが、言葉よりずっと大きく響いてくる。
「ねぇ、ヒロ」
「ん……なに」
「今夜は、もうがんばらなくていいよ」
虚ろな目を閉じながら、ヒロはうなずいた。

言葉にはしないけれど、ありがとうの気持ちだけが、胸の奥でぽっと灯っていた。
そのまま、ふたりは静かに時を過ごす。
テレビの音も、スマホの通知も、今は必要なかった。
ただ、そっと撫でられる背中と、隣にいる誰かのあたたかさだけが、
一日の終わりを、やさしく包んでくれていた。

背中に残るぬくもりが、胸の奥にまで沁み込んでくるようで、ゆっくりとマユミの隣で目を閉じ、静かに眠っていった。
オススメ記事