「病気でも恋愛していい?」一目惚れから始まった真剣な想い
午後の光がカーテン越しに、部屋の中をやさしく照らしていた。
テーブルの上には湯気の立つコーヒーカップ。スピーカーから流れる音楽は、まるで風のように静かだった。
そのあいだに、ボクとマユミの沈黙があった。
「……自分が、こんな体なの、わかってるんだ」
ゆっくりと口を開いたボクの声は小さくて、それでも、どこか決意のようなものを帯びていた。
「それでも、好きだ、好きだって……無理やり自分に言い聞かせて、突き進んだんだ。だからさ、もう離れたくないなんて……そんなの、わがままだよな」
マユミはコーヒーカップを両手で包み込むようにして、じっと僕を見ていた。
「そんなことないよ」
うつむいたまま、ボクは小さく笑った。
「ごめんな」

「なんで謝るの?」
マユミの声が、少しだけ震えた。
「謝る必要なんてないよ」
首を振ったボクは、まるで過去の自分に話しかけるように言った。
「迷惑かけるって、わかってたのに……普通だったら、こんな体で誰かを好きになるなんて、きっとダメなんだよ。結婚なんて考えない。いつ、仕事できなくなるかもわからない。そしたら、マユミに負担がいってしまうし……」

言葉は静かに、でも止まらなかった。
「健康な人なら、多少の無理もできる。奥さんに心配かけずに、好きなことをさせてあげられる。テレビで楽しそうな家族旅行のCMなんかを見てると、マユミに申し訳なく思うんだ。うちは、って……つい考えちゃう」
マユミは、黙ってボクの目を見ていた。何も言わず、ただ静かに、まっすぐに。
「体を壊す前は、撮影旅行とか、県外に出ることも多かった。でも今は、引きこもりみたいな生活で……そんな中で、マユミに一目惚れしたんだ。……最悪だったよな」
マユミが、ふっと笑った。涙をこらえているような、でもあたたかい笑顔だった
「何言ってるの。あたしと会ったことが、最悪なわけないでしょ」
ボクは少し顔を上げて、彼女を見た。
「うん……そうだよ。マユミと出会えたのは奇跡だった。人生で、一番の」
そして、小さく続けた。
「最悪っていうのはね……マユミみたいな人に好きになってしまったこと。幸せにできないかもしれないのに、好きになってしまった。それが、ボクのいちばん情けないところなんだよ」
マユミの目が潤んでいた。不器用なボクの言葉が、まっすぐに彼女の胸に届いていた。

「好きになったときは、そんなこと考えられなかった。ただ、マユミが好きで、好きで……止められなかった」
マユミはそっとコーヒーカップをテーブルに置いて、ボクの手を取った。
「ヒロは……そんなに、私のこと、好きなのね」
「……ああ。死ぬほど、好きだよ」
「死んじゃ、ダメ」
その言葉だけで、部屋の空気がふわりと変わった気がした。
「私はね、昔、好きな人とお別れしたことがあるの。泣いても泣いても、引き止められなかった。でも……今度は絶対に、イヤ。ヒロとは、お別れしたくない」
マユミの声が震えて、涙が一粒だけ、そっと頬を滑り落ちた。
「絶対、イヤだからね……」

ボクはその涙を、そっと指先でぬぐった。
あの頃のボクは、自分でも自分が壊れかけていると気づいていた。
仕事に追われて、眠れない夜を繰り返して、やがて体は限界を超えた。
病院での診断。手放せなくなった薬。
もう、誰かを好きになる資格なんて、自分にはないんだと思っていた。
でも、マユミはそんなボクをまるごと受け入れてくれた。
体調のことも、心の弱さも、全部知ったうえで、隣にいてくれた。
飲み忘れた薬を、黙って差し出してくれたり、ボクが無理をしているときには、そっと冷たいお茶を置いてくれたり。
そんなひとつひとつが、どれほどボクを救ってくれたか、たぶん彼女は知らない。
たぶん、普通の人だったらボクのことを重いって感じていたと思う。
それでも、マユミは迷わずボクを選んでくれた。
自分を後回しにしてでも、ボクを思ってくれる。
だからボクは、彼女と出会えたことを「人生でいちばんの幸運」だと信じている。
これからは、ボクの番だ。
マユミが安心して笑っていられるように、家族のこと、将来のこと、全部ひっくるめて守っていく。
だって――マユミは、ボクの命みたいな人だから。
そして今日も、午後の光はカーテン越しに、ボクらの部屋をやさしく染めている。
テーブルのマグカップの湯気は消えてしまったけれど、ふたりのあいだにあるものは、まだずっと、あたたかかった。