春の土曜の午後。
控えめなチャイムの音に、マユミが「来たみたい」と立ち上がる。ボクも思わず背筋を伸ばす。
「こんにちは。……おじゃまします」
玄関に現れたのは、落ち着いたグレーのパーカーに白いスニーカーの女の子とベージュのワンピースのマユミのお母さんだ。。
マユミの妹――この春から大学生になったばかりの、真妃(マキ)。

最初はやや緊張した面持ちだったけど、リビングに入ってすぐ、ふっと肩の力が抜けたように笑って言った。
「写真で見てたより、広いんですね。あと、いい匂い。お姉ちゃんの匂いがする」
「え、それ褒めてる?」とマユミが笑い返す。
マキは空気を読むのが上手で、でも堅苦しくはない。
「大学、朝が早くてさ。実家からだと駅まで遠いし、電車に乗っても40分、学校まで1時間くらいかかるの、夜遅くなると怖いの」
「ここなら駅まで歩いてすぐだし、電車に乗れば20分で着くし30分で着くし、街だから明るいから」
「何よりお姉ちゃんがいるから、ちょっと安心、もちろんお兄さんもいるし」
そう言って少し照れたように笑うその表情は、マユミにそっくりだった。
ふたりともしっかりものの姉妹だなと思った。
お母さんはすっかりこの家に慣れた様子で、「ヒロさん、いつもすみません」と笑いながら、すでに台所の中もわかっている手つきでお茶を用意している。

「マキちゃん、部屋になるところ、見てみる?」
ボクがそう声をかけると、
「うん、すっごく気になってたの」
マキは軽やかに立ち上がり、足元をそっと直して、廊下へと向かった。納戸を片付けてつくった小さな空間。
簡易クローゼットと白いラックだけの、すっきりした6畳部屋。
「……わぁ。すごくきれい。ここ自分の部屋になるなんて、うれしい」
マキがそう言ったそのとき、マユミがぽつりとつぶやいた。
「ヒロがね、ぜんぶ片付けてくれたんだよ」
「えっ、ほんと?ありがとう」
マキがそう言って、にこっと笑った。

どこか褒め慣れている感じ。でも、ちっとも嫌味がない。
「ここ、自由に使ってね。ほしいものがあったら、なんでも言って。遠慮なんて、しないでいいから」
マユミがマキの顔を見て笑って、やさしく続けた。

「ね、マキ。もううちの子なんだから。気をつかわないのがルールよ」
「友達とか、連れてきてもいい?」
「もちろんよ。ね、ヒロ?」
「ああ。玄関からすぐの部屋だから、気を遣わずにすむね」
リビングに戻って、マユミがお母さんに「お母さん、マキがね、すっごく喜んでくれて……『ありがとう』って言ってくれたの」
お母さんは、にっこりと優しい笑顔を浮かべて言った。
「マキちゃん、良かったわね。ここ、夜も警備員さんがいるから安心でしょ、アパートで一人暮らしも今怖いから、良かったね」「それに、優しいお兄さんもいるしね」

マユミが、ちょっとだけからかうように笑う。
「ふふ、ほんと。しかも片付けもできて、時々ご飯もつくってくれるのよ、最高でしょ」
マキも、まるで家族の一員になったように、楽しそうに笑った。
お母さんはそんなふたりのやりとりを見て、まるで春の午後みたいにやわらかく目を細めていた。
***
その夜、マユミと並んで眠る寝室。
この部屋は、マユミの空間であり、ボクにとっては“マユミと一緒に眠る場所”。
パソコンもカメラも、本棚すら置かないのは、ここがマユミの世界だから。
ベッドサイドの明かりを落としても、どこか気持ちは明るいまま。
マキちゃんがこの家にやって来た日、家の空気が少し変わった気がした。

「ねぇ、マユミ」
「ん?」
「ボクのこと…マキちゃん、"お兄ちゃん"って呼ぶようになるのかな」
そう口にした瞬間、ちょっと照れくさいような気もして、マユミの反応をうかがった。
マユミは少し笑って、優しい声で言った。

「うん、きっとそうなると思うよ。呼ばれたら、うれしいでしょ?」
「うん、妹だからうれしいと思うよ」
その響きが妙にしっくりきて、ボクは布団の中でそっと笑った。
誰かに「お兄ちゃん」って呼ばれる日が来るなんて、思ってなかったな。
マユミがそっと手を握ってきて、ささやくように言った。
「ねぇ、きっといい家になるよ。マキにとっても、私たちにとっても」
その言葉に、ボクはゆっくりと目を閉じた。
変わっていく毎日が、ちょっと楽しみになってきた。