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(現在・夜のリビング)
雨の音が、窓を叩いている。
ヒロはソファに座って、仕事のラフ案を眺めている。マユミはキッチンからマグカップを二つ持って戻ってくる。

「ほら、ココア。あったまるよ」
「ありがとう、マユミ」
マグカップを受け取ると、ふわりと湯気が上がった。
5年目の結婚生活。気づけば、こんなふうに一緒に過ごす雨の夜が、当たり前になっていた。
マユミがふと、ヒロのラフ案を覗きこむ。

「……この構成、なんか懐かしい。思い出しちゃった、あのプロジェクトのこと」
「……どの?」
「うそ。覚えてないの? 私が入社してすぐのころ。雨の日、ヒロが残業してて、私、傘を持って戻った日」
ヒロの手が、止まる。
マユミの声が、ゆっくりと過去を開いていく。
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(過去・5年前のオフィス)
窓の外はどしゃ降りだった。
定時をとっくに過ぎたオフィスで、ヒロはひとりプレゼン資料と格闘していた。

カタカタとキーボードを打つ手を止め、ふと隣の席を見る。
新人の竹◯さん──いや、マユミのデスク。整然とした文房具、貼り直されたメモ。
誰もいないのに、そのデスクにはどこか気配があった。

「ヒロさん。ちょっと、いいですか?」
──振り返ると、そこにマユミがいた。

傘をさして戻ってきた彼女は、少し息を弾ませながら、モニターをのぞく。
「この前の資料……少し見せてもらってもいいですか?」
「え? あ、うん。どうぞ」
彼女は、ヒロの画面を見つめて、ふと小さく笑った。
「この構成、ちょっと、わたしが入社したときのプロジェクトに似てます」
「……そう?」
「たぶん……ヒロさんは、覚えてないと思うんですけど」
そう言って、マユミは話し始めた。
自分が右も左も分からない新人で、プレゼン資料を前に泣きそうだった日。
ヒロがふっと立ち上がって、たったひとこと、助けてくれたこと。

「“このスライドの流れ、少し変えてみたらどうですか?”って。それだけなのに、すごく救われたんです」
ヒロは、ほとんど覚えていなかった。
でも、マユミの中では、あのひとことが、いまでも光のように残っていたらしい。
***
(現在・リビング)
マユミは、ココアをすすりながら、微笑む。
「だからね。あのとき、“この人のそばにいたい”って、ちょっとだけ思ったの。あれが、最初だったなって」
ヒロは、言葉が出なかった。
彼女のとなりに座る自分が、あのときと同じように、少しだけうつむいている。
「……あの頃のボクが、今のマユミにつながってたんだな。なんか、不思議だ」
マユミが、そっと手を重ねる。
「今でも、たまに思い出すよ。雨の音と、ディスプレイの光と、あの“ひとこと”。……ありがとう、ヒロ」

──ふいに胸が熱くなった。
涙が出るほどのことじゃない。
でも、あの頃の記憶が、今に静かにつながっている。それが、なんだかとても、うれしかった。
思い返せば、あの雨の日からだった。
マユミのためなら、どんな仕事でも迷わず優先してきた。
「ありがとう」って、小さく笑ってくれたあの日の笑顔を、ずっと忘れたことがなかった。
ただ手伝いたい、じゃない。

そばにいたい。その時間を少しでも長く、一緒に過ごしたい。
そんな想いを、毎日のなかに、そっと紛れ込ませてきた。
マユミが困っていれば、すぐに席を立った。
忙しい日々のなか、彼女のタスクを先回りして片づけることが、ボクなりの“好き”の伝え方だった。
──それが、やがて“結婚”というかたちになって、今、目の前にいる。
隣のこの人と、眠る前の静かな夜を共有している。
それは、何か大きな奇跡より、きっと、ずっと尊いことだった。

「ありがとう、ヒロ」
マユミが重ねた手に、ボクはそっと指をからめた。
その温度に、なんだか泣きそうになった。
「……ずるいよ」
思わず、つぶやく。
マユミがきょとんとした顔をして、目を瞬かせた。
「いま言われたら……がんばってよかったって、全部泣きそうになるだろ」
「……泣いてもいいよ?」
少しだけ笑って、マユミが言う。
「5年経っても、そう言ってもらえるなんて、わたしのほうこそ……しあわせ者だなって思ってるから」
静かな部屋のなかで、時計の針がやわらかく時を刻む。
テレビの音も止まっていて、外の雨も、もう止んでいた。
マユミの手を握ったまま、ボクはそっと目を閉じた。
この手を、もう二度と離したくない。
心から、そう思った。