「制服のまま、ただいま」
昨日、「休むよ」と言った自分の言葉が、まるで予告だったみたいだ。
朝、目が覚めた瞬間、身体の奥にずしりと重たいものが沈んでいた。
節々がきしむように痛くて、立ち上がる気力が湧かない。
咳も出ない。熱も測ってない。
でも、もう、無理だった。
ベッドの中でマユミに「今日は本当に無理みたい、ゴメン」
それだけで、精一杯だった。
マユミに休んだらと言われたからボクは当日休暇を取ることにした。
出かける前、マユミは鞄を肩にかけたまま、ボクの額にそっと手をあてて、まるで体温計みたいに、じっと見つめてきた。


──この人は、本当に、ボクのことを見てくれているんだな。
それが、じんわり嬉しくて、少し泣きそうになった。

たぶん、ボクはマユミに迷惑ばかりかけている。
けど、それを口に出すと、きっとマユミは「迷惑じゃないよ」って言うんだろう。
そんなふうに、ボクの全部を肯定してくれる。
それが、嬉しくて、情けなくて、愛しくて。
ボクが調子を崩すと、マユミは“ちょっとやりすぎなんじゃないか”ってくらいに、全部やってくれる。
薬を飲む時も、「はい、お水もあるよ」って、子どもに言うみたいに笑う。
ボクが何かする前にサッと何かしら察してしてくれる、すべてが、やさしく準備されている。
なんていうか……。
ボクは、マユミの赤ちゃんみたいだな、と思う。
少しだけ照れくさい。
でも、嫌じゃない。むしろ、くすぐったくて、しあわせだ。
こんなふうにしてくれる人がいるなんて、
昔のボクだったら、きっと信じなかった。
今はもう、マユミなしでは生きていけないな、って思う。
もし、死ぬとしたら、マユミより先がいい。
マユミを残していくなんて、考えたくもない。
それくらい、マユミは、ボクにとって特別な人なんだ。
──マユミが出て行ったあと、会社に電話をかけた。
早出の女性社員さんが出た。
顔馴染みの人だったから、話はすぐに通ったけれど、やっぱり少しだけ、気を遣った。
……やっぱり、マユミがいいな。
マユミはさっき出掛けていったからまだクルマの中だ。

マユミは出掛ける前に会社にちゃんと言っとくからと言って出ていった。
薬、ちゃんと飲んで、無理しないこと──
心配でたまらない顔をして、「ちゃんと、薬飲んでね」って、心配そうな声で言ってくれた。
今までだってそうだった。
ボクが「今日、悪いかも」って言うたびに、
「無理しないで、休んだほうがいいわよ」って、マユミは言ってくれた。
その言葉に、どれだけ救われたかわからない。
ボクは休んでも仕事はキッチリ方を付けるから会社も、もう何も言わない。
その代わり、復帰した日には、机の上にファイルの山。
スカイツリーみたいにそびえ立っている。
それでも、ボクは、気合でなんとか片づける。
少しずつ、体に無理がたまって、また悪くなったりするけれどね ──
度が過ぎる作業量でもフォローは無かったね。回復したかと思えば、それ以上の深夜勤務。誰も出来ないから無理するしかなかった。
だけど、マユミがそばにいてくれるから、頑張れた。

マユミが本当に泣きそうになった、あの夜を思い出す。
あれから数年。
今は薬も効いて、どうにかやれている。
昼すぎまで、ベッドで眠っていた。
微かな音で、玄関の鍵が回る音がして、ボクはぼんやり目を開けた。
──マユミだ。
足音が、トントンと近づいてくる。
そして、寝室のドアが静かに開いた。

「ヒロ、大丈夫?」
マユミが、制服のまま立っていた。
見慣れたはずなのに、胸がきゅっとなった。
「あっ、マユミ……仕事は?」
「今日は、クライアントと打ち合わせだけだったから、そのまま、帰りに家に寄ったの」
マユミはそう言って、スーパーの袋を持ち上げた。
ほんのりあたたかい匂いが、部屋にふわっと広がる。
「お昼ごはん、買ってきたから、食べよ」
制服のままのマユミが、当たり前みたいにごはんを用意してくれる。

もう、何度も見た光景なのに、今日も特別に見えた。
妻が心配して、仕事中に家に寄ってくれた。
結婚してから初めて、仕事の合間に立ち寄ってくれた。
以前はまだ独身で別々に暮らしていて、僕が体調を崩して休んでいると、彼女は仕事中に何度も様子を見に来てくれた。
でも、結婚してからは同じ家から一緒に会社へ向かう日々で、わざわざ仕事中に家に戻るなんてことはなかった。
だからこそ、今日のこの出来事には、なんとも言えない感慨深さがあった。
だって、マユミは今朝、自分の家から、ちゃんと会社に行って、そのまま、心配して家に寄ってくれたんだ。
忙しいはずなのに、打ち合わせ帰りに真っ直ぐ、家へ。
その気持ちが、あたたかくてたまらなかった。
ご飯のあと、マユミはボクの頭をそっと触った。

「熱、下がってるみたい。よかった」
小さな声で、心から安心したように言う。
ボクは、胸の奥があたたかくなって、うん、と頷くのがやっとだった。
窓の外、昼の爽やかな光が静かに差し込んでくる。
いつも制服のまま、ボクのために帰ってきてくれたマユミ。
ただ、それだけで、世界中のどんな薬より、元気になれる気がした。