「おふざけの裏側で」
月曜日の午後。 3月だというのに、暖房の効きすぎた会議室は、ちょっとしたサウナみたいだった。
「……あつい、ってば。ヒロ、窓、ちょっとだけ開けてよ」

「風、強いから書類飛ぶよ?」

「いいから、ほら。窓際の男、頑張って」
いつものように軽口をたたきながら、マユミはボクに目配せする。 ほんのり汗ばんだ額にかかる前髪を指で押し上げながら。
ボクはしぶしぶ立ち上がり、窓のロックを外して少しだけ開けた。

「……ヒロって、やっぱり素直だよね」

「はいはい。なんとでも言ってください」
「ふふ。だって、言えばちゃんとやってくれるんだもん」
そう言って、彼女はペンをくるくると回しながら、なにかの資料を読み込んでいた。
静かに、淡々と、でも少し照れながら話すマユミを見て、ボクは胸がいっぱいになった。
昼休みも終わりかけの会議室。
飲みかけのコーヒーがまだ少し湯気を立てていて、
その向こうで、マユミが椅子に背中を預けた。

「……ねぇ」
ぽつんと、呼ばれた。
小さな声だったから、最初は気づかなかった。
「ん?」
ボクが顔を向けると、マユミは机の上で指でモジモジしていた。
なんでもないみたいな顔をして。
でも、指先だけが、ほんの少しぎこちない。

「会社でさ、たまに、ふざけるじゃん。私。」
「うん」
「あれさ、べつに、好きなわけじゃないから」
急に、そんなことを言い出す。
言葉は軽いのに、なぜか耳にひっかかった。
マユミは、笑っているような顔で、でも、目だけは真っすぐだった。
「ほんとはね、真面目に話したいときもあるのに、ヒロと普通に話したら、絶対、バレるでしょ。……いろいろ。」
「……いろいろ、ね」
ボクが笑うと、マユミもふっと息をこぼした。

「だから、ふざけたノリにまぎれて、ヒロに近づいてた。バレないように。誰にも、気づかれないように。」
指の動きが止まった。
マユミの指先が、それ以上動かなかった。
……やっぱり、知ってたよ。
最初から、気づいてた。
マユミは、ボクのために、あんなに自然に、あんなに優しく、隣にいてくれてたんだ。
「うん、知ってた」
ボクは静かに言った。
マユミは、え?って目を丸くした。
「知ってたし、嬉しかったし、……すごく感謝してる」
声が震えそうで、ぎゅっと拳を握った。
「好きだからね…」
マユミは、ふっと顔を綻ばせた。
少し涙ぐみそうになりながら、でも、笑って。

「よかった。……ヒロ、ちゃんと気づいてくれてたんだね」
ボクたちは見つめ合った。
なにも言わなくても、たぶん、伝わった。
社内では、ふざけた流れでしか近づけなかったけど。
でも——
ボクとマユミは、もう、ちゃんと心で繋がってる。
これから告白して、付き合うことになるんだろう。
自然と、そんな確信が湧いた。
「じゃあ、また、なんか企んどくね」
マユミが、いたずらっぽく笑った。

「……うん、楽しみにしてる、でも、企むなんて…ね」って、素直に答えた。
——そして、静かに会議室を出た。
何事もなかったように、周りに溶け込むために。
でも、ボクたちの世界は、確かに、少しだけ、色を変えていた。
***
(ヒロのモノローグ)
たぶん、ボクは最初からわかってた。
マユミが、わざとふざけて、周りに溶け込むふりをしながら、こっそりボクを自分の世界に引き込んでくれていたこと。
それは、誰にでも向けた顔じゃなかった。
マユミは、みんなに優しいけど、誰にでもあんなふうに触れたりはしない。
笑って、軽口叩いて、わざと巻き込むみたいにして──
その度に、ボクは心の中で、何度も何度も、嬉しさに溺れそうになった。
ほんとうはボクなんか、
大勢の中にいると、何を話していいかわからなくて、誰とも目を合わせないでやりすごしてしまう、そんなやつだったのに。
マユミが手を伸ばしてくれなかったら、きっと、今も、ずっと遠いままだった。
ただ、見上げるだけの、光の向こう側にいる人だった。
──あの日、勇気を出して屋上で告白して、心臓が壊れそうになりながら、どうにか想いを伝えたボクを、マユミは、ちゃんと見てくれていたんだ。
ああ、って思う。
マユミはずっと、ボクのために動いてくれていた。
気づかないふりをして、そっと背中を押してくれていた。
嬉しい。
泣きたくなるくらい、嬉しい。
だけどそれと一緒に、どうしようもない怖さも少しだけある。
こんな奇跡みたいな時間は、もしかしたら、いつか終わってしまうかもしれない、って。
だからボクは、今、この瞬間だけは、絶対に忘れたくないと思う。
──マユミ。
ボクは、やっぱり、君が好きだ。
出会ったときよりも、今の君のことを、もっと、もっと。
(ここでふとマユミがボクを見上げて、小さく笑う。その笑顔が、すべての答えだった。)