ハグのある暮らし
マユミと結婚してからというもの、ボクらの間には、自然と「ハグ」が根づいている。
「ただいま」の代わりに、ぎゅっと軽く抱きしめる。
「いってきます」の前に、背中をトントンと叩くように。
「おかえり」は、言葉よりも先に腕を広げるのが合図になった。
最初から、照れくさなかった、家だけだから。
ハグって、好きだよって言わなくても感じる。

だけど、マユミが「してみたい」と言ったとき、彼女の目は真っ直ぐで、恥じらいよりも優しさの方が勝っていた。
「おはようハグ」
「ただいまハグ」
「おつかれさまハグ」
気がつけば、それはボクらの挨拶になっていた。
ある朝、まだ眠たそうな顔でキッチンに立っているマユミに、「おはよう」と声をかけながら、ぼくは両腕を広げた。
彼女はちょっと笑って、ふわっとぼくに身を預ける。
その瞬間、すべての空気がやわらかくなる。
マユミは背が高くて、だけど驚くほど華奢で、抱きしめると、まるで風に触れているような軽やかさがある。
肩のあたりに顔を寄せると、ほのかに甘い香りがした。石けんのような、だけどそれだけじゃない、マユミにしかない香り。
それはまるで、あたたかな記憶の中にふと紛れ込んだような、ほっとする匂いだった。
「ん…あったかい」
彼女がそうつぶやくと、胸の奥の何かが、静かにほどけていく。
ハグには、言葉では足りないものが詰まっている気がする。
「好きだよ」とか、「大丈夫だよ」とか、「ありがとう」とか。
うまく言えない気持ちを、そっと渡す手段として、いつのまにか、ボクらの暮らしに溶け込んでいた。
ちょッした意見の食い違いで機嫌が悪くなる時もあったけど、ハグしていたらいつの間にか忘れて元に戻ってた。
外から見たら、ちょっと変わってるかもしれない。
でも、ボクたちにとっては、ハグはもう、空気みたいなものになっていた。無くなったらきっと、ちょっと息苦しい。そんな気がする。
「おやすみハグ」

たぶん、マユミが好きだからだろう。
そう思うとき、ボクは決まって、また彼女をそっと抱きしめる。
20年経った今でもボクはハグをするけど、今は奇襲作戦でハグをする。
だから、マユミは「もう何するの!」とマジで怒って嫌がる。
最後は「ヤメロよ〜」って。