「バルコニーの朝」
春の匂いがまだ残る朝。
バルコニーに出て、プランターの花やハーブに水をやるのが、毎朝の習慣だ。
マユミと2人でハーブや花を育てるのが朝の癒される瞬間です。
実家の庭を思い出しながら、ボクは静かに水を撒掛ける。
ハーブは案外気まぐれで、水を忘れるとすぐにしおれてしまう。でも、たっぷりあげれば、何事もなかったようにまた元気になる。そういうところが、ちょっとだけマユミに似ている。
実家の裏庭には、梅や桃、夏みかんにビワの木まで植わっていた。

桃が一番好きで、お店で買うと1000円以上しそうな立派な大きな桃が何個も勝手に実っていた。
勝手にたくさん下に落ちて悪くなっていた。
うちの家族は誰も桃を食べないから、だから、いつも裏に行ってひとつもいでその場でかぶりついていました、果汁が滴り落ちて手が果汁まみれでしたね。
真ん中を小道が一本、黒土のまま奥へ続いていて、両脇の木々がトンネルみたいに枝を伸ばしていた。小道は踏み固められていて、草ひとつ生えていなかったのに、不思議と土の匂いがやさしかった。

ドクダミ、スギナ、ヨモギ、ツクシ。雑草と一緒に、ヨモギ、ミョウガ、ムカゴ、ツクシなど季節の恵みがそこら中に勝手に生えて、子どもだったボクにとっては、そこがちょっとした森のようだった。
二週間に一度の草取りも、嫌いじゃなかった。
***
だからなのか、大人になった今も、小さな緑の空間があるだけで落ち着く。
もちろん都会のマンションで木を育てるのは難しいけど、せめて食べられる植物だけでも…と思って、バルコニーでハーブを育てている。
今朝も、ボクはマユミが持ってきた白いジョウロに水を入れて、そっと手渡す。

「ありがと。ヒロ、こっちのミント、また元気ないかも」
しゃがみこんで葉に触れるマユミの指先は、まるで何かを撫でるようにやさしい。
ボクはその横顔をしばらく見ていた。

「陽当たりは悪くないけどな……水、足りなかった?」
「ううん。ちょっと拗ねてるだけかも」
「拗ねる?」
マユミは笑って、小さな声で言った。
「植物ってさ、案外気分屋なんだよ。声かけてあげると、ちゃんと応えるの」
「……そういうの、マユミ得意そうだよね。声、優しいし」
「じゃあ……元気になってね、って」

そう言いながらミントに水を注ぐ。朝の光が、彼女の手元をふんわり照らしていた。
「ヒロだって元気出るでしょ? わたしが言ったら」
「うん……正直、出た」
ちょっと照れながら言うと、マユミがくすっと笑った。
「じゃあ、わたしも疲れたときは、ここでお水やって癒してもらうね」
「それ、いいな。バルコニーの秘密の治療法、だ」
ふたりの笑い声が、静かな空にゆっくり溶けていった。
ボクはローズマリーの鉢に目をやりながら、ふと思い出す。
「そうだ。ローズマリー、剪定したほうがいいよね。ちょっと伸びすぎてる」
「うん、丸く整えると可愛いよ。木みたいになるし。あ、ちょっと貸して」
マユミが小さなハサミを手にして、枝先を優しく整えていく。
「これ、ちゃんと乾かしておけば料理にも使えるよ。鶏肉と相性いいし」
「じゃあ今夜、ローズマリーチキン?」
「……ヒロが作るなら」
目を細めて言うマユミに、ボクも小さくうなずいた。
夕飯の食事はマユミと約束通りローズマリーを使って、ガーリックローズマリーチキンレモン風味、イタリアンパセリ添え、プチトマトとフレッシュベビーリーフを付け合わせに作った。
朝、会社に行く前にビンにオリーブオイルにローズマリーとガーリックを漬けておいて、それを使って焼くだけだから簡単だ。


マユミはボクにはもったいない妻だ、どうしてボクと結婚してくれたのかまだ聞いたことがない。だからマユミにはできる限りのことはしてあげたいと思っている。

そうだ、春は手入れの季節。
植物も、人も、少しずつ整えて、ちょうどいい形にしていく。
風に揺れるミントの葉が、少しだけ機嫌を直したように見えた。
