ひとりの通勤、ふたりの時間
結婚して数ヶ月。
今朝はひとりで通勤する。
マユミが休んでいるだけのはずなのに、会社に向かう足取りは妙に重かった。
久しぶりのひとりの仕事。
それも、マユミが取ってきた記念誌の制作という大きな案件。
彼女がこれをどれだけ頑張って進めてきたかを知っているからこそ、今日は一人でも気合を入れないといけない。
それでも、デスクで資料をめくる手がふと止まる。
なんだか妙に静かだ。
隣で「ここ、どう思う?」と聞いてくる声がない。
いつも一緒だったからこそ、いないことが余計に響いてくる。

あの頃、ボクたちは秘密の恋をしていた。
同じプロジェクトで並びながらも、互いに距離を保たなければならなかった。
じっと見つめるのも、何気ない手助けをするのも、誰かの目を気にしながら。
彼女が体調を崩した時も、本当はすぐにでも気にかけたかったのに、ただ「大丈夫?」と同僚の顔で声をかけることしかできなかった。
それでも、時々仕事帰りにふらりとボクの家へ訪ねてくることがあった。
そんな日々が積み重なり、気づけば互いに欠かせない存在になっていた。
夕方、雨が降り出した。
窓の外を見ると、空はすっかり薄暗い。
雨粒が滲むガラスの向こうで、なんとなくマユミのいないことが一層寂しく感じられる。
定時で仕事を終え、馴染みのスーパーへ寄った。
店員さんが「今日は寒いね」と言いながらニコリと微笑んでくれる。
その一言だけなのに、なんだか少しほっとした。

カゴに野菜をたっぷり詰め込みながら考える。
こんな肌寒い日は、ミネストローネがちょうどいい。
マユミは野菜がたくさん入ったスープが好きだった。
帰宅し、キッチンで調理を始める。
刻んだ野菜が鍋の中で煮込まれ、じんわりといい香りが広がっていく。
いつもなら「美味しそう!」と隣で楽しそうに眺めているマユミが、今日は寝室で休んでいる。そのことが、ほんの少し物足りなく感じた。

スープが完成し、トレイに載せて寝室へ向かう。
「マユミ、できたよ。」
ベッドの横に腰を落とし、そっと手を差し伸べる。
彼女の腕を支えながら、ゆっくりダイニングへ連れていく。怪我をしている足に負担がかからないよう、慎重に。
椅子に座らせると、鍋から立ち上る湯気を見てマユミの顔がぱっと明るくなった。
「ミネストローネ…!」
驚いたような、でも嬉しそうな声。思わずボクは笑う。
「好きだったよね。」
「うん。すごい、いい匂い…!」
スプーンを手に取ると、マユミはゆっくりとひと口飲む。

「あったかい…」
湯気越しに、彼女がほっとしていくのがわかる。しばらくして、ふっと微笑んだ。
「こういうの、雨の日に飲むのもいいかもね。」
「雨の日?」
「なんとなくね。あったかいし、ほっとするし…そういう時に飲みたくなる感じ。」
ボクは少し考え、口を開く。
「じゃあ、雨の日はこのスープを作ることにするか。」
「ふふ、それいいね。」
約束みたいな言葉が交わされると、なんだか気持ちが落ち着いてくる。
どしゃ降りの雨の日も、どこか気だるい曇りの日も、このスープがあれば少しだけ温かくなる。
そんなふたりのちょっとしたルールが、またひとつ増えた気がした。