『ただいま、そして、おかえり』── 婚姻届を出す
春の柔らかな陽射しが窓辺に落ちるころ、いつの間にか二人は「一緒に暮らしている」ことが当たり前になっていた。あの日、マユミのポーチがヒロの家にそっと置かれた時から、マユミの「引っ越し」はすでに始まっていた。
「ねぇ、ヒロ。ほら、もう私、ここに住んでるわよね?」
クローゼットの中の洋服を掛け直しながら、そんなことをさらりと言う。いつものように明るくて、軽やかで。けれど、その何気ない言葉にヒロの心臓が跳ねる。

「え、いいの?」
「だって、そうするつもりだったし。ヒロの家、もう私の家でもあるもの」
──やられた。
さりげない日々の積み重ねが、いつの間にか二人を一緒の暮らしへと導いていた。
朝、目覚めるとキッチンからマユミの鼻歌が聞こえる。夜、仕事から帰るとリビングにはマユミがいる。
その「日常」は、特別なんかじゃなくて、ただ、心の奥にじんわり染みてくる心地よさだった。
そんな二人が結婚を決めた時も、どこか自然な流れだった。けれど、結婚式を挙げるかどうかについては、マユミの考えは決まっていた。
「無駄なお金は使いたくないもの。披露宴は小ぢんまりでいいわよ」
結婚資金は十分にある。けれど、それをすべて使ってしまうと、また一から貯めなおすことになるし、これからの生活を考えれば堅実に進める方がいい。それはヒロも理解していた。
「二人の暮らしを楽しみながら、コツコツ貯めていくのもいいんじゃないかなぁ」
「そうね。いずれ家族が増えるかもしれないし、その時のために大事にしていきたいもの」
そんな話をしながら、二人で決めた。
結婚式は最も親しい親戚や友人だけを招いた小さな披露宴、新婚旅行は時間ができた時に改めて行こう。
必要なことだけを整え、無駄なことは省く。それが、二人らしい「結婚」の形だった。
役所に婚姻届を提出した日、いつも通りの帰り道だったのに、少しだけ景色が違って見えた。交差点の信号待ちでマユミがふとつぶやく。

「ねぇ、なんかさ……」
「ん?」
「今日から、ほんとの家族になったんだなぁって思ったの」
その言葉が、ふわっとヒロの胸に広がった。
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家に帰ると、玄関には二人の靴が並んでいて、ダイニングのテーブルにはマユミが作った夕飯がある。まるで昨日と同じ。でも、今日は特別な「ただいま」と「おかえり」。

「ただいま」
「おかえりなさい、ヒロ」
──こうして、二人の暮らしは始まった。
日々は慎ましく、けれど愛おしく。大切な人のために暮らし、守り続ける。それは、何気ない日常の中に確かに息づいている。
