社内恋愛が公認されたとはいえ、ボクらは特別ベタベタするわけじゃない。
これまでの「会社では他人モード」が抜けず、今でも基本は普通に接している。とはいえ、ほんの少しの隙間時間に二人だけの空気が流れることもある。
例えば——エレベーターの中。
***
公認前、かなり前だけど、エレベーターでマユミと二人きりになるのは、一種のイベントだった。
誰かが乗ってくるかもしれない——そう思うだけで心臓が跳ねる。
最初の頃は、どちらからともなく少し距離を取って、目も合わせなかった。無言のまま目的の階が来るのを待つだけだった。

ある時なんて、 ドアが閉まる直前に誰かが走ってきたせいで、思わずボクとマユミが肩を寄せ合ってしまい、二人して顔を赤くしたこともある。
「……あれ、ちょっと暑くない?」
「……そ、そうですね」
そんな不自然な会話を交わしたこともあった。
それでも、誰もいないエレベーターで目が合うと、マユミがちょっとだけ口角を上げる。それが嬉しくて、ボクは「早く目的の階に着いてくれ」と願うのと同時に、「もう少しこのままでもいい」と思ったものだ。
***
「お疲れさまです」
昼休み明け、社内のエレベーターに乗り込むと、たまたまボクとマユミだけだった。最上階の食堂から、ボクのいるフロアまで降りるまでの 2分間。
「ふぅー…」
マユミが軽くため息をつきながら、背中をエレベーターの壁に預ける。
——社内で堂々とマユミを見られるって、なんて幸せなんだろう。
以前までは、ボクからは誰もいない会議室や物陰でしかまともに視線を合わせられなかった。人目を気にしながら、たまにこっそり話せるだけ。でも、今はこうして、エレベーターの中という「密室」で、ほんの一瞬でも二人きりになれる。
「午後の会議、長いから憂鬱なのよね…」
マユミがぽつりとこぼす。
「確かに3時間くらい籠もってるしね、まあ、仕方ないよ」
ボクも、相槌を打つ。
「……」
「……」
静寂。エレベーターの電子音が低く響くだけの空間で、マユミがじっとボクを見上げる。
「ねえ、ヒロ」
「ん?」
「エレベーター、あと1分くらいで着いちゃうね」
「……そうだね」
「……降りたくない」
——えっ?
一瞬、心臓が跳ねる。
公認前だったら、こんなセリフが飛び出した瞬間にボクは挙動不審になり、マユミは「冗談」とごまかしていただろう。いや、それ以前に、こんな風に堂々と話すことすらできなかったはずだ。
冗談なのか本気なのか、マユミは小さく笑いながら「ね?」と軽く首をかしげた。無邪気な表情だけど、どこか甘えたような雰囲気が混じっている。
「……ずるいこと言うね」
「ふふっ」
軽く笑うマユミの顔が近い。エレベーターは狭いわけじゃないのに、妙に距離が縮まっている気がする。公認されたとはいえ、社内でこんな風に甘えられるのは破壊力が強すぎる。

ボクは、なんとか平静を装って答えた。
「エレベーターに閉じ込められたらいいのにってこと?」
「そうそう、それ!」
「……願いが叶ったらどうするの?」
「んー……その時は、その時で?」
マユミがニヤッと悪戯っぽく笑う。
***
そういえば、公認前に一度だけエレベーターの中で密かに手を握られたことがあった。
——正確に言うと、握られたというより、マユミの指が一瞬触れただけだった。
あれは、たしか朝の出勤時。二人きりだったのに、途中で誰かが乗ってきた。ボクらはすぐに「他人モード」に切り替えたけど、マユミの手がほんの少し、ボクの手の甲に触れた。
それだけで、その日一日、マユミの手の感触が頭から離れず、仕事に集中するのが大変だった。
もし、あの時の自分が今の状況を知ったら、きっと驚くだろう。
***
「……あのさ」
ボクは、少しだけ勇気を出して言った。
「こういう時だけ、そんな可愛いこと言うの、反則じゃない?」
「え?」
今度はマユミが驚いた顔をする。
——珍しく、逆転成功。
マユミはしばらくボクを見つめた後、少しだけ頬を赤くして、ぷいっとそっぽを向いた。
「ヒロのくせに…」
その瞬間、 チンッ とエレベーターが到着する音が鳴る。扉が開き、誰もいない廊下が目の前に広がる。
「ほら、降りるよ?」
そう言ってボクが一歩踏み出すと、マユミも少し遅れてついてきた。
「……ほんと、降りたくなかったなぁ」

そんな小さな呟きが背中越しに聞こえて、ボクの心臓はまた跳ねた。
——これはもう、ボクの負けかもしれない。