「隣にいる理由」
「◯◯くん、この前の飲み会のマユミさん、可愛かったなぁ〜。」
突然、同期のFDくんがボクのデスクにやってきて、ニヤニヤしながら話しかけてきた。

「え?」
「いや、ほら、甘えてたじゃん。◯◯くんに。」
「……っ!」
ボクの隣で、マユミがぴたりと固まる。
「いや〜、あれは可愛かったな〜。彼氏いるのかと思ったよ。」
ボクはさりげなくマユミのほうを見る。
……彼女は微動だにせず、じっと一点を見つめていた。
「ねえ、◯◯くんはどう思った?」
FDくんが肘で小突きながらニヤつく。
「え?」
「マユミさん、甘えられるとドキッとするでしょ?」
「いや、まあ……その……。」
なんと答えるべきか迷う。
「……」
マユミはスッと席を立った。
「ちょっと、書類取ってきますね。」
そう言って、足早にフロアを出て行った。
***
昼休み。
ボクが給湯室へ向かうと、マユミがコーヒーを淹れていた。

「さっきは、ごめん。」
隣に立ち、小声で言う。
「何が?」
「その……昨日のこと、話題になって……。」
「あー、うん。」
マユミはスプーンでカップをかき混ぜながら、ぼんやりと湯気を眺める。
「ヒロは、私がああいうふうになっても、嫌じゃなかった?」
「え?」
「もし、昨日のことを覚えてたら、どう思ってた?」
……そんなの、答えられるはずがない。
「別に、嫌とかじゃないよ。ただ……。」
「マユミに負担をかけていたのかなと。」
ボクは正直に言った。
昨日のことで会社に来るのが嫌になったりしないかな。そんなことを考えていた。
***
しかし、それはボクの取り越し苦労だった。
マユミはコーヒーを一口飲むと、ふっと微笑んだ。
「ねえ、ヒロ。」
「ん?」
「私ね、こうなって、すごく楽になったんだ。」
「楽?」
「うん。だって、もう隠さなくていいんだもん。」
そう言うと、マユミはボクをまっすぐ見つめた。
「今までは、ヒロのこと好きなのに、会社では何もなかったみたいに振る舞うのがすごくしんどかった。でも、もう知れ渡ったんだから、無理にごまかさなくてもいいでしょ?」
「でも、これから噂とかされるかもしれないだろ?」
「別にいいよ。」マユミはさらりと言う。
「だって、言う人は言うし。私たちが気にしてないなら、それでいいんじゃない?」
「……強いな。」
「ううん、強くなったの。」マユミはカップを置くと、小さく息をついた。
「この会社って、社内恋愛したらみんな結婚して、そのままずっと同じフロアで働いてるでしょ?」
「ああ、確かに。」

「だったら、むしろ安心じゃない?」
「……どういうこと?」
「だってさ。」
マユミはふんわりと微笑んだ。
「好きな人とずっと一緒にいられるし、結婚も視野に入れられる。隠してビクビクするより、堂々としてたほうがいいでしょ?」
「それは、まあ……。」
「それにね、もし誰かに何か言われたとしても——」
マユミは少しだけ意地悪そうに微笑んだ。
「私より幸せになってるところを見せてから言ってほしいな、って思うの。」
「……」
その言葉を聞いて、ボクはなんというか、胸の奥が少しくすぐったくなった。
「それに——」
マユミはカップを手のひらで包みながら、少し真剣な顔をする。
「私たちの仕事は完璧よ。」
「……え?」
「私とヒロが組んだプロジェクト、全部成功してるし、結果もちゃんと出してる。他の人より、私たちのほうがすごいんだから。」
そう言って、マユミは少し誇らしげに微笑む。
「仕事さえちゃんとして、会社に貢献してれば、誰も何も言えないでしょ?」
「まあ……確かに、そうか。」
「だから、仕事とプライベートは気をつけていけばいいの。」
「……」
「まあ、あんなことになった私が言うのも変だけどね。」
そう言って、マユミはペロッと舌を出した。
「……」
ボクは思わず吹き出しそうになったが、ぐっとこらえた。
「ちゃんと気をつけるから。」
マユミはコーヒーを一口飲みながら、さらりと付け加えた。
「だって、私はヒロのお嫁さんになるもの」
「……え?」
「ヒロをずっと支えるの。」
マユミは何でもないことのようにそう言った。

ボクの思考が一瞬止まる。
——お嫁さん?
耳が熱くなるのを感じた。いや、顔全体かもしれない。心臓の鼓動が一気に速くなる。
冗談か本気か、それを確かめる余裕もない。ただ、彼女の言葉が頭の中で何度も反響して、まるで心の奥底からじんわりと温かい何かが溢れてくるようだった。
「……お前な。」やっとの思いで絞り出した言葉が、それだった。
「ん?」
「今のセリフ、もっと恥ずかしそうに言えよ。」
「えー? じゃあ、ヒロも恥ずかしがってよ。」
「いや、無理。」
「ふふっ、やっぱりね。」マユミは満足そうに微笑んで、再びカップを口に運んだ。
ボクは彼女の横顔を眺めながら、ふと思う。
——まさか、こんな形でマユミに先を越されるとは。
一目惚れだった。最初に見たときから、どこか遠い存在のように感じていた。美しくて、賢くて、どこか隙がない彼女に、いつか並ぶことができたら——なんて、叶いそうにもない夢を抱いていた。
それが今、彼女はボクの隣で、まるで当然のように「支える」なんて言っている。
……どう考えても、幸せ者だ。
冗談めかして言ったつもりだったのに、マユミの視線は優しくて、どこか安心させるようなぬくもりがあった。
ああ、これは——。
——ボクが彼女を好きなだけじゃなく、彼女もボクを大切に思ってくれているんだ。
今まで、どこかで「追いかける」立場だったのに、気づけば「守られている」ことに気がついた。
なんだか、くすぐったい。だけど、それ以上に、心が満たされていく。
長い時を経て、一目惚れした女性に逆に心配されて、母性本能をくすぐらせて——ボクは、こんなにも幸せになっていいのだろうか。
いや、もういいとか悪いとかじゃない。
これは、きっと、ボクがずっと望んでいた未来なんだ。
——この先も、マユミとずっと一緒にいる未来が見える気がする。