仕事を通して少しずつ縮まる距離
15年以上前、運命のいたずらか、マユミとの物語は上司の一言から静かに幕を開けた。
「〇〇(マユミ)さん、この案件、〇〇(ヒロ)さんと進めてくれ。」上司の言葉に、一瞬思考が止まる。え、今なんて?
「ほら、〇〇(マユミ)さん、彼に説明してあげて。」隣に立つマユミが、静かに、でもはっきりとした声で話し始める。資料を指しながら、ボクの方を見つめた。
「この部分、こういう風に進めてみませんか?」

緊張で手が震えそうになるのを必死にこらえ、なんとか頷く。
「はい、分かりました。」
たったそれだけの会話。なのに、心臓が波打つのが分かった。
それから、仕事を通してマユミと関わる機会が増えた。やり取りを重ねるたびに、彼女の誠実さや気遣いに惹かれていく。
いつの間にか、ランチに誘われることも増えた。最初は社食で、「このメニュー、意外とおいしいですよ」と何気なく教えてもらっただけだった。次第に「カフェでも行きます?」なんて流れになり、気づけば仕事以外の会話をする時間が増えていた。
「この前、他部署の会議に出たんですけど、もう大変で……」
会社の愚痴をこぼすマユミの表情が、いつもよりくだけて見えて、なんだか新鮮だった。仕事で見せる凛とした姿とは違う、少し肩の力が抜けた彼女の一面。そんな些細な変化が、ボクには嬉しく感じられた。
最初の頃のボクはマユミに、プロジェクトの進捗の指示をもらってデザインするだけだった。
はじまり
最初の頃のボクはマユミに、プロジェクトの進捗の指示をもらってデザインするだけだった。
ある日、ふいに彼女が話しかけてきた。
「〇〇さん、普段どんなデザインが好きなんですか?」
興味ありげな瞳が、真っ直ぐにボクを捉える。
「えっ……あ、えっと、シンプルだけどインパクトのあるものが好きです。」
緊張しながらも真面目に答えると、彼女は少し考えてから、ふっと笑った。
「そうなんですね。今度その話、もっと聞かせてください。」
にこっと微笑む顔が、やけにまぶしかった。
──それから、ボクとマユミはどんどん距離を縮めていった。
ボクはデザイン担当だけど、もうひとつ、カメラに詳しいという理由で、撮影を伴う取材に呼ばれることが多かった。
「カメラ、詳しいんですね。」
初めての取材帰り、マユミが言った。
「まあ、趣味みたいなものだけど。」
それからというもの、なぜかマユミの指名で二人きりの取材が増えていった。
温泉街の旅館、伝統工芸の工房、祭りの会場、ゴルフ場。取材先は多岐にわたった。帰り道、クルマの中で他愛のないことを話しながら。いつの間にか、彼女と一緒にいる時間がすっかり自然になっていた。
そしてこの頃から、取材帰りに「お腹すきましたね」とカフェに寄ることも増えた。最初は軽くお茶を飲むだけだったのに、気づけば仕事以外のことを話していた。マユミが好きな食べ物の話、ちょっとした日常の出来事、たまには会社の愚痴なんかも。
「〇〇さんって、あんまり人の悪口言わないですよね。」
「……そう?」
「なんか、平和主義というか、穏やかっていうか。」
そう言われて、ちょっと驚いた。自分ではそんなつもりはなかったけど、マユミから見るとそういう風に映っているらしい。
そんな風に、少しずつ、彼女のことが分かってくるのが楽しくなっていた。

■会社で倒れたボク、マユミの優しさに触れる
2年くらい経った日、ボクがあまりの過労で会社で倒れたとき、真っ先に駆け寄ってきたのはマユミだった。
「ちょっと、大丈夫?無理しすぎじゃない?」
焦ったように額に手を当て、顔を覗き込んでくる。

「……大丈夫、たぶん……」
そう言ったものの、頭の奥がすごく痛くて、大丈夫なはずがなかった。
病院へ運ばれ、数日間休むことになったボクを、マユミはずっと気にかけてくれていた。
「合鍵、持っててもいい?」彼女の申し出
病院から戻った日、ボクはまだ少しふらつきながらも、会社からの命令で家で休んでいた。
昼過ぎ、インターホンが鳴る。誰だろう?
「え……?」
「ちょっと、大丈夫?」
こんな時間にマユミが来てくれた。
マユミは仕事の合間に寄ってくれたらしい。制服のままで、手にはコンビニの袋。
「これ、消化に良さそうだったから買ってきた。」
袋の中には、おかゆのレトルトやスポーツドリンクが入っていた。
「……ありがとう。でも、わざわざ会社抜けてまで来なくても。」
「心配だったの。だって、倒れるまで無理するんだもん。」
そう言って、ボクをじっと見つめる。普段の会社での顔とは少し違って、どこか真剣だった。

──そういえば、マユミがボクの家に来るのは初めてじゃなかった。
取材帰りに何度か立ち寄ったことがある。最初は作業の整理で「会社に戻るより効率いいし」という理由だったけれど、いつの間にか自然な流れになっていた。
「これ、お土産。」
温泉街の取材帰りには温泉まんじゅうを、伝統工芸の取材のあとは可愛い小物を持ってきたり。そういう気遣いが、ボクは密かに嬉しかった。
そんなやり取りを重ねるうちに、マユミとの距離は少しずつ縮まっていった。
だから、今回の申し出も、彼女にとっては自然なことだったのかもしれない。
「今度こういう時のために、合鍵持っててもいい?」
不意の言葉に驚く。
「え……?」
「会社で倒れられたら、さすがに心配するし。ちゃんと休んでるか見に行かせて、それとご飯用意するから」
少し恥ずかしそうに、でも真剣な表情。そんな顔を見せられたら、断れるわけがなかった。
「……じゃあ、頼んでもいいの?」
こうして、ボクの部屋の鍵はマユミの手に渡った。

鍵
病気で寝込んでいたとき、彼女は何も言わずに来て、当たり前のように看病してくれた。
「ほら、ちゃんと食べてね。」
テーブルの上には温かいおかゆ。
「ありがとう……」
弱々しく呟くと、「いいの、こういう時くらい頼って?」と微笑むマユミの顔がやさしく滲んで見えた。
──なんだろう、この安心感。
マユミがいると、部屋の空気がやわらかくなる。
それが、なんだか妙に心地よかった。
彼女と過ごす時間が、ボクの世界を変えていく
それがボクとマユミの、長い時間をかけて築かれた関係だった。
今では、ボクとマユミは普通に笑い合い、話すことができるようになった。
でも、それまでの時間を思い返すと、どれだけ遠回りをしてきたのかと思う。

最初は、話すなんて夢のまた夢だった。
ただ遠くから見ているだけでよかった。
けれど、気づけばボクの世界は、マユミによって少しずつ色づいていた。
「ドキドキするのも、悪くないな。」
ふっと笑いながら、そう思えたのは、きっと彼女のおかげだ。