恋人になった次の日
あの日から、何かが変わった。
とはいえ、会社では何も変わらない。
マユミは相変わらず仕事ができて、ボクはそれを横目で見ながら自分の仕事をこなす。上司や同僚も普段どおり声をかけてくるし、PCの画面は今日も数字とメールで埋まっている。
でも、変わったんだ。
例えば、マユミと目が合うとき。
これまでは「たまたま視線がぶつかった」だけだったのに、今は違う。ほんの一瞬、彼女の目が長くボクを捉えている気がする。それだけで、心臓が勝手に反応する。
ただ、会社では今までどおりを貫くと決めていた。
二人の関係を知られるわけにはいかない。
だからこそ、仕事中もできるだけ意識しないようにしている。……つもりだった。
でも実際は、マユミがデスクから立ち上がれば、ついチラッと見てしまうし、彼女が歩けば、周りに気づかれぬよう目だけで追いかけてしまう。

付き合う前からずっとそうだった。
好きすぎて、目で追わずにはいられなかった。
自分でも、おかしいのかな、と思う。
もし周りに知られたら怖いし、そもそも歯止めがなかったら……下手したらストーカーになってたんじゃないかとも思う。そう考えると、逆に怖い。
恋愛って、怖いよな。

片想いが狂気に変わることだってある。
世の中には、叶わない恋に走りすぎて壊れてしまう人もいる。
——でも、ボクは幸運だった。
好きな人が、自分を好きになってくれた。
都合がいいけど、奇跡みたいなことだ。
***
「ねえ、ヒロ。」
昼休み、食事を終えてオフィスに戻る途中、マユミが唐突に言った。

「ん?」
「さっきから、私のことずっと目で追ってるでしょ?」
「……えっ?」
「前から思ってたけど、私が動くたびにチラチラ見てるよね。」
「そ、そんなこと……」
「嘘。バレバレ。」
マユミはクスクスと笑う。
「いや、別に意識してるわけじゃ……」
「へぇ?」
完全に“分かってる顔”だったので、ボクは観念した。
「……すみません。」
「ふふっ。でも、なんか可愛いね、ヒロって。」
不意打ちだった。
会社の廊下で、そんなふうに言われるなんて思っていなかったから、ボクは一瞬、言葉を失う。
「……ちょっと、からかいすぎじゃない?」
「えー? だって面白いんだもん。」
嬉しそうに笑うマユミを見ながら、ボクはなんだか悔しいような、でも悪い気はしないような、不思議な気分になる。
そして、不意に彼女が少しだけ声を落として言った。
「でも、誰かに見られるかもしれないから、気をつけてね。」
その言い方がやけに優しくて、ボクは一瞬、ドキッとする。
「……うん。」
「秘密のままにするんだから、ね?」
そう言って、マユミはにこっと笑った。
誰かに見られているかもね。
というか、もうマユミには完全に見抜かれてる。

***
仕事終わり、マユミが言った。
「ねえ、少し寄り道しない?」
そんなに遅くならなければいいか。ボクは頷く。
会社を出て、少し静かな道を歩く。信号待ちで並んで立つと、マユミがぽつりと呟いた。
「ねえ、ヒロ。」
その声に、心臓が跳ねる。
「何?」
「これから、どうしようか。」
真正面からの問いに、思わず言葉を詰まらせた。
「どうしようって…」
少し考えて、正直に言う。
「これからもずっと一緒にいたいし、ちゃんとお互いを大事にしていきたい。」
当たり前みたいに言ったのに、少しだけ勇気を出した言葉だった。
マユミはじっと耳を傾けて、小さく笑った。
「うん、それが一番大事だよね。」
夜風がふわりと吹いて、彼女の髪を揺らした。
***

ふとした瞬間、マユミがボクの手を取った。
柔らかくて、でもしっかりと握っている。
「ごめん、なんだか自然に手をつなぎたくなっちゃって。」
その言葉がやけに可愛くて、ボクは思わず微笑む。
「全然気にしないよ。」
むしろ、嬉しい。
会社では秘密にしている関係も、こうして二人きりなら隠す必要はない。
ボクはそっと、彼女の手を握り返した。
それだけで十分だった。
二人は、そのまま静かな道を歩いていった。