昼休みが終わり、オフィスに戻ると、そこにはいつもの喧騒が広がっていた。電話のコール音、キーボードを叩く音、誰かの笑い声。
ボクは何となくデスクに戻り、モニターに視線を落とす。
だけど、意識の半分は別の方向にあった。
──マユミ。
視線を横にずらすと、彼女が会議の準備をしているのが見えた。真剣な顔で資料をめくる姿は、なんというか、普通に「仕事モード」なのに、つい見とれてしまう。

「後で少しだけ手伝ってくれない?」
突然のお願いに、ボクの意識が現実に引き戻される。いや、引き戻されたっていうより、むしろ意識がそこに全部持っていかれた。
「もちろん。なんでも言って。」
この返事の速さは、自分でもちょっと笑える。
だけど、マユミに頼まれたら断る理由なんてないし、むしろ喜んで引き受ける。何より、彼女がボクを見るときのあの表情。あの笑顔を見ると、もう何でもできる気がしてしまう。
──なのに。

「マユミさん、ヒロさんが手伝ってくれるなんて、いいですね。」
不意に背後から聞こえた声に、ボクは一瞬固まった。
振り返ると、営業部のMTさんが、にこやかにこちらを見ていた。なんだろう、
この妙な空気。ボクとマユミの関係を知っているわけじゃないはずなのに、言葉の端々に微妙な含みがある。
「…MTさん、どういう意味ですか?」
ボクが探りを入れるように聞くと、彼は肩をすくめて軽く笑った。
「いえ、ただの冗談ですよ。お二人、仲良さそうだなと思って。」
冗談。そう言われればそれまでだ。でも、胸の奥に違和感が引っかかったまま離れない。
普段なら、こんな言葉は気にしない。むしろ「そうですか?ありがとうございます」とか適当に流して終わる話。でも、なぜか今日は違った。何かが、引っかかる。
会議の準備が終わったあと、ボクはマユミと並んで歩いていた。
「さっきのMTさんの話、気にしなくていいよね?」
何気なく聞いたつもりだった。でも、マユミは少し驚いたようにボクを見た。
「ああ、MTさん?ただの冗談よ。気にしなくて大丈夫。」
そう言いながらも、何かを思い出したように、マユミは続ける。

「でも、あの人、ちょっと気になるかも。」
「気になる?」
ボクの胸の奥が、わずかにざわついた。
「うん、なんだかヒロと私が近すぎるって、どこか気にしてるみたい。」
心臓が小さく跳ねる。なぜか、マユミの口から「ヒロと私が近すぎる」なんて言葉が出てくると、妙に意識してしまう。
「俺、何か変なことしてたかな…?」
思わず真剣に考え込む。が、マユミはふっと笑って、軽く首を振った。
「大丈夫よ、そんなこと気にする必要ないわよ。」
その言葉に、安心する。けれど、心の中には妙な感情が芽生えていた。
──これは、嫉妬…?
いや、違うだろう。でも、ほんの少しの不安と、ほんの少しの焦りが混じったこの感覚は、何かしらの名前を持っているはずだ。
会議が終わり、ボクとマユミがまた二人きりになったとき、彼女がふと問いかけた。
「もしMTさんが何か聞いてきたら、どう答える?」
ボクは少し考えてから、静かに答えた。
「マユミがどうしても気にするなら、何もないって言うよ。でも、もし…ボクたちのことがバレても、構わない?」
マユミは一瞬、驚いた顔をした。そして、ゆっくりと、でも確かに頷いた。
「ありがとう。でも、まだ少しだけ…秘密にしておきたいの。」
その言葉を聞いたとき、ボクは何かを悟った。
この「秘密」は、ただの秘密じゃない。二人の関係が、確かに特別なものになっている証拠なのだ。
──なら、もう少しだけ、この秘密を楽しもう。
そんなことを思いながら、ボクは心の中でそっと笑った。