以下の内容はhttps://qianchong.hatenablog.com/entry/2026/02/18/092135より取得しました。


「それぞれに固有の索引」と読書の効能

宮田昇氏の『図書館に通う』を読んでいたら、氏の姉が特養(特別養護老人ホーム)に入ってから認知症とそれに伴う妄想が進みつつあるのを見かねて、読書をすすめる話が出てきました。もう本を読むなんて難しいかなと思いつつも、姉の読みやすそうな「大活字本」を手渡してみたら、拡大鏡をかざして読み始め、ほどなく妄想も止んだのだとか。それで宮田氏は、もっと早くすすめておけばよかったと「臍を噛んだ」というお話です。

私はあらためて、想像の世界を膨らますことができる活字の魅力、ほかの力を借りずともひとりで楽しめる読書の素晴らしさを確認した。習字や折り紙では止めることができなかった老化を、読書はいっときかもしれないが遅らせた。(205ページ)


図書館に通うーー当世「公立無料貸本屋」事情

テレビや動画などのコンテンツは、情報を一方的に受け取るだけの受動的な状態になるので、認知機能の衰えを招くという説を聞いたことがあります。 視聴している間、脳は視覚と聴覚による情報を次々と処理することに追われて、思考するための前頭前野の働きが抑制された状態になるというーー。

一方で読書、つまり文字のコンテンツは、文字で表された言葉の意味を理解する段階で、「どんな風景?」とか「どんな人物?」などと自身の過去の記憶や体験を呼び起こしつつ、想像を膨らませる必要が生じます。読書は自ら視覚情報や聴覚情報を脳内に作り出す必要があるという点で能動的なのでしょう。宮田氏の姉上に効果があったのも肯けます。
qianchong.hatenablog.com
読書におけるこの、自身の過去の記憶や体験を呼び起こしつつ新たな想像を膨らませるという「脳への効能」みたいなものについて考えていたら、たまたま読んでいた根本彰氏の『情報リテラシーのための図書館』に、歴史学者の佐藤健二氏の『読書空間の近代』からこんな文章が引用されていました(211ページ)。

ひとはなぜ、自らの記憶とそれをつかいこなすために、それぞれに固有の索引をつくりあげなければならないのか。知がもつ本源的な力が、そうした関係性のなかにしか宿りようがないからである。つまり経験を引用する索引の構築過程こそが、分類わけであると同時に関係づけの実践であり、記憶とここで呼ぶ知の本体である。記されたもの、書かれたものとしての実在は、知るという実践を意味しない、その痕跡にすぎず効果にすぎない。むしろ、記すこと、書くこと、いや、読むことの形式こそ、知るという実践にとって本源的である。(『読書空間の近代ーー方法としての柳田国男』19ページ)


情報リテラシーのための図書館ーー日本の教育制度と図書館の改革

人にはそれぞれ、物心ついてから今日に至るまでの経験の記憶が「固有の索引」として存在していて、読書はその索引を検索しつつ新たな関係性を作っていく行為(脳の神経細胞がシナプスを枝分かれさせて新たな回路を作るのに似ています)であり、そうした行為の記憶を「知」と呼ぶのだーー私はそんなふうに読み解きました。

であれば、読書が脳の老化を(いっときかもしれないけれど)遅らせるというのもわかる気がします。そして逆に、山本直樹氏のマンガじゃないけど『テレビばかり見てると馬鹿になる』というのも。SNSのショート動画なんか、もっと「ヤバ」そうな感じがします。




以上の内容はhttps://qianchong.hatenablog.com/entry/2026/02/18/092135より取得しました。
このページはhttp://font.textar.tv/のウェブフォントを使用してます

不具合報告/要望等はこちらへお願いします。
モバイルやる夫Viewer Ver0.14