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それでも、読書をやめない理由

二週間ほど前のことですが、作家・吉川トリコ氏のコラムが新聞に載っていました。「SNSに時間を吸われて」焦っておられるとのこと。私もかつて同じような感じでSNSに耽溺していたので、とても共感を持って読みました。

吉川氏はコラムの最後を「まずはスマホをカチ割るべきなのかもしれない」と結んでおられます。同じような衝動に駆られたことは、私にもあります。でも結局は「カチ割る」ことはできず、かといって、いわゆるガラケーやダムフォンに乗り換えることもできず、すべてのSNSから「降りる」ことでようやく心の平静を取り戻したのでした。

先日、図書館で借りて読んだデヴィッド・L・ユーリン氏の『それでも、読書をやめない理由』には、こんな記述がありました。

人と人とをつなげるという名目のもとに、テクノロジーはわたしたちを引き離し、ついには自分自身からも引き離してしまう。ツイートしたい、メールしたい、ブログを更新したいという絶え間ない衝動によって、わたしたちはどうでもいい日常の出来事(『ランチには残り物を温めなおすつもり』etc)を共有し、自分たちは親密であるという幻想を抱くようになった。それによって、本質的なことが何かひとつでも明らかになるわけではないのに。(104ページ)


それでも、読書をやめない理由

そうなんですよね。SNSから降りようとする過程で、私は「アテンション・エコノミー(注意経済)」に関する書籍をあまた読み漁り(おそらく数十冊は下らないと思います)、巨大テック企業から無料で提供されるSNSをはじめとするテクノロジーが、いかに私たちのお金と時間を奪っていくかについて痛感することになりました。

それだけの書籍を経なければ、あのくだらない(と敢えて言いましょう)SNSから自分を引き剥がすことができなかったのか……と自らの意志の弱さがなんとも情けないです。しかし、上掲のコラムで吉川氏も呻吟なさっているように、それだけSNSは巧妙に・精巧に作り込まれていて、よほど用意周到な戦略を取らなければ「解脱」は容易なことではないのです。

でもいったん「解脱」できてしまうと、今度は「どうしてあんなもの(SNS)にそこまで執着していたんだろう」と、かつての自分が信じられないくらい。私はここで解脱だの執着だの宗教めいた語彙を使っていますが、実際のところSNSに実利を見出すのは、かのリチャード・ドーキンス氏が「妄想である」と喝破した神ないしは宗教を信じるのと同じようなものだと今にして思います。


神は妄想である ‐宗教との決別‐

いや、それ以上に害悪ですらあるとさえ思っています。SNSにおける発言の大部分は匿名で行われ、それも手伝ってか摩擦や対立や分断や誹謗中傷や罵詈雑言や流言飛語の温床になっていることは、ニュースサイトなどのコメント欄をちょっと覗いてみるだけでも明らかです。マスメディアも、報道やジャーナリズムに携わる者としての矜持があるのなら、SNSのコメントを流用する悪習(というか手抜き)はやめるべきだと思います。

SNSもその登場の当初は、マスメディアに独占されていた発信をひとりひとりの手に託せるようになった、誰もが手軽に情報を発信できるようになったことが世の中に対する最大の貢献だともてはやされたものでしたし、自分もそう実感していました。でも十数年を経た今は「良質な発信」が問われる時代になったのです。『それでも、読書をやめない理由』には、こんな記述もあります。

わたしはかねてから、匿名性こそインターネットが自らの首をしめるものだと考えてきた。それはわたしたちに、仕返しの心配も償いの心配もなく、他者へ唾を吐きかけることを許す。(141ページ)

SNSに耽溺していた頃の私は、それが他者とより豊かにつながるためのチャネルになるのではないかと考えていました(SNSの黎明期には、たしかにそんな側面もあったのです)。でも、いろいろと考えた末にすべてのSNSから降りた私は、ネットに耽溺することでいつのまにか手薄になっていた読書に戻ってくることになりました。
qianchong.hatenablog.com
SNSとともに、ニュースサイトや動画サイトからも意識的に距離を置くようになりました(このふたつは「すべて降りた」とは言えませんが、それでも費やす時間はかなり減りました)。そのぶん読書の時間を取り戻したわけですが、読書、それも良質な読書こそ「他者とより豊かにつながるためのチャネルになる」ことを再発見したような気がします。ふたたび『それでも、読書をやめない理由』の記述から。

本が内側から外側を照らし出すものであるのに対し、映像はその逆なのだ。言葉とは内的なものだ。わたしたちは、他者の記した言葉から、自分なりのイメージや映像やリアリティを創り出さなくてはならない。それこそが、言葉の力の源だ。つまり、真の意味で他者と相互作用的であるということが。(124ページ)

読者は本と一体化する(・・・・・・・・・・)。これは重要なーーおそらく、もっとも重要なーー指摘だ。カー*1は、読書とは心の状態や体験を描き出す方法、あるいは刻みこむ方法であると述べている。読書とは、それによって人生の認識にいたる、人生のひな形である、と。(129ページ)

私は2025年の今に至ってようやくこんなことを考えるようになったわけですが、驚くのはこの『それでも、読書をやめない理由』が書かれたのは2010年だという点です。2010年といえば、ちょうど私がTwitterのアカウントを作ってSNSへ急速にのめり込んで行った時期じゃないですか。この本のエピローグにはこう書かれています。

結局のところ、何かと注意が散漫になりがちなこの世界において、読書はひとつの抵抗の行為なのだ。(192ページ)

この15年間、私はいったい何をしていたんでしょうね。

*1:『ネット・バカ』の著者、ニコラス・G・カー氏のことです。 qianchong.hatenablog.com




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