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「豊かに死ぬ」ために

病院に「集中治療室(ICU)」というものがあります。ICUは“Intensive Care Unit”の略称なので、「室(部屋)」だけではなく生命維持のための「ユニット(装置や設備)」を指すこともあるようです。いずれにしても患者は様々な機器につながれている状態で、私は妻がくも膜下出血の手術をしたときと、母親が亡くなる直前コロナを併発したときに立ち会ったことがあります。

ICUは厳重な管理を必要とするため、患者に対する見舞いや面会はたとえ家族であっても制限されることがほとんどです。この曜日や時間帯に何分間までといったような。特に重篤な状態の場合にはそばに寄ることも許されません。遠くから、ガラス越しに自分の家族を見守るしかないのです。

懸命に治療をしてくださっている病院の医師や看護師のみなさんには感謝しかないのですが、それでも私には、家族が生きるか死ぬかという状況にも関わらず、自分がそばに近寄れないことが何とももどかしく理不尽に感じられました。いちばんそばに寄り添いたいときなのに、本人は他の人の管理に預けられているというその状態が。

ICUに限らず医療、特に終末期のそれは、こうした「いろいろなものにつながれ、かつそれが他の人の管理に預けられる」という状態になることがほとんどです。きょうび、自宅で息を引き取るということは少なく、仮にできたとしてもただ寝ているだけというわけにはいかないでしょう。何らかの管理や処置のもとに最期の時を見守るという形になるはずです。

そんな諸々の状況を承知しつつ、では自分が最期の時を迎えるとなったら、どんな状態でありたいかということをよく考えます。縁起でもないとか、まだ早いよなどと周りの人には言われます。でも終末期医療に関するいろいろな本を読んでいると、これはよほど早くからじゅうぶんに考えて自分の意志なり希望なりを具体的な形にして、かつ周りに伝えておかないと、けっきょくは「いろいろなものにつながれ、かつそれが他の人の管理に預けられる」という状態にならざるを得ないだろうと思うのです。

今回も、そんなことをそれぞれ違った角度から考えさせられる二冊の本を読みました。小野寺時夫氏の『私はがんで死にたい』とアトゥール・ガワンデ氏の『死すべき定め 死にゆく人に何ができるか』です。


私はがんで死にたい


死すべき定め 死にゆく人に何ができるか

『私はがんで死にたい』は、2012年に刊行された同名書籍の新装版です。世間では、がんで死ぬのだけは絶対に嫌だ、できれば「ポックリ」(ピンピンコロリなんて言葉もありますね)か老衰がいい……という人が多いけれども、実はポックリはいきなり死の恐怖と激痛に襲われることが多く(妻のくも膜下出血などその典型です)、老衰は長期にわたる不如意の期間を経ることが多く、いずれも穏やかで充実した人生の幕切れとはなりにくいといいます。

それにくらべてがんは、余命をきちんと把握したうえで、適切な処置とケア(最終期はホスピスで緩和ケア)を受けつつ、人生を振り返り、できることをやり、気持ちの整理をし、家族や友人にも感謝を告げて、心置きなく死を迎えることも可能だ……というのです。なるほど、それは確かにそうかもしれません。

また『死すべき定め』は、終末期医療に関わる外科医の著者が、さまざまな人々への医療や看取りの経験をふまえて、人は終末期をどう生き、最期の時をどう迎えるのが幸せなのか、豊かに生きることと同じくらい「豊かに死ぬ」ことを真剣に考えるべきではないか(医療者も、そして本人も)と問いかけてくる本です。

この二冊に共通しているテーマのひとつで、その是非が検討の俎上に乗せられているのは「医療の過剰」、つまり終末期に至って「どんな状態でも生かしておくのが人命尊重」(『私はがんで死にたい』)という考え方です。『死すべき定め』のアトゥール・ガワンデ氏は、序章でこう述べています。

施設の中で人は死ぬまでの日々を過ごす。ナーシング・ホームやICUの中で。人の顔が見えないルーチン化された治療手順によって人生において大切なものすべてから引き離される。老化と死という経験を率直に検討することを躊躇することで、私たちは患者の苦痛を増し、患者がもっとも求めている基本的な癒しを与えないようにしている。人生の最後の日までをどうすれば満ち足りて生きていけるかを全体から見る視点が欠けているから、私たちは自分の運命を医学やテクノロジー、見知らぬ他人が命じるまま、コントロールするがままにしている。

人生の最後の日までをどうすれば満ち足りて生きていけるかを全体から見る視点。その視点、視座に達するためには、やはりまずは自分自身でじゅうぶんに考え、家族ともじゅうぶんに話しあったうえで、「豊かに死ぬ」ために必要な手はずをひとつひとつ整えていく、そんな努力というか営みが必要なのでしょう。

以前、「人は、それまで生きてきたように死んでいく」という言葉に接して私は「人は、それまで生きてきたように老いていく」ものでもあろうなあという気づきを得たのですが、どう老い、どう死んでいくのかについて考えることは「縁起でもない」わけではなく、また誰にとっても「まだ早い」わけではないのだと改めて思いました。

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